欲しいのはAbeTV?政治と放送の危うい関係 放送局は自らの手で未来像を示すしかない

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周知のとおり、安倍政権はマスメディアに敵対的な姿勢を取り続けている。特に、意に沿わないテレビには、放送法4条違反を理由にした停波などの行政処分をちらつかせ、圧力を掛けてきた。その4条を、なぜ撤廃しようとするのか。

民放幹部は「森友、加計問題を追及する民放に苛立ち、政府の意向を代弁する“AbeTV”をつくりたいのだろう」と口を揃える。実現しなくても、民放への牽制になるからだ。

また、産業振興を旗印に、首相官邸などの経産省関係者が、通信と放送に関する権限を総務省から奪おうとしているとの見方もある。

一方、ハードとソフトの分離は1980年代から本格的に議論されるようになり、CS、BS放送はハード・ソフト分離で多チャンネルを実現した。総務省はデジタル化を機に、地上放送もハード・ソフトを分離し、新規事業者を参入させようと画策する。これに対し、既存の民放とNHKは、広帯域を必要とするハイビジョンを導入することで、新規参入を退けた。2010年の放送法改正の際も、民放などはハード・ソフト分離に反対し、地上放送に限ってハード・ソフト一致の例外を認めさせた。

しかし、放送は「最後の護送船団」で競争が足りない、との批判は根強い。さらに、IoT(モノのインターネット)などの技術革新が進めば、電波が不足するのは必至だ。「電波は移動体に使うべきで、動かないテレビに使うのはもったいない」(元NTT首脳)といった声が高まり、放送改革論議が再燃する可能性は大きい。

説得力ある論理を

表現の自由や知る権利の観点からは、政府の改革方針をどう評価するべきか。

放送法4条を撤廃すれば、表現の自由の中核である「国家からの自由」は広がる。4条違反による行政処分はなくなり、政府の批判も、逆に擁護も、やりやすくなる。より多様な放送が可能になるだろう。

とはいえ、偏ったチャンネルがたくさんあればよいのか。1987年、衛星放送やケーブルテレビの台頭を背景に、放送のフェアネスドクトリン(公正原則)を廃止し、思想の自由市場での競争に任せた米国では、党派的な放送が増え、それが社会の分断を助長したといわれる。SNSの普及などで、日本でも分断が進むなか、いくつかのニュースを見比べないと、全体像がわからないような状況になったら、知る権利はむしろ損なわれないか。

ただし、法的な規制がなくなっても、放送局が自ら4条のような番組基準を作り、守るという道もある。実際、法的規制を受けない新聞は、自主規制を堅持してきた。そもそも、極端な番組は視聴者に支持されないし、広告も付かない。各局が自主規制を遵守すれば、視聴者の知る権利は保障しうる。

他方、4条のような法的規制を設けることで、番組の質や多様性を確保するという考え方もあり、「国家による自由」と呼ばれる。規制を撤廃すれば、偏向したニュースや虚偽の情報が氾濫するおそれもあるからだ。

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