地方出身者が作った80年代のキラキラ日本 橘玲×湯山玲子「95年が時代の区切りだった」
湯山:バブルの時代の話をすると、ジュリアナで踊ってたのは私のちょっと下世代。今のアラフィフくらいが何もしないで会社に入れた人たちですね。私たちのときは就職難でした。社員の給料はそんなに多くなかったんだけど、使える経費が多かった。タクシーはよく乗ってたよねぇ(笑)。
忘れちゃいけないのが、男女雇用機会均等法前であり、就職のときに大差別が存在していたことですね。唯一、今と同じように男と同等に働けたのが「ぴあ」「リクルート」「パルコ」「ベネッセコーポレーション」(当時は福武書店)の4社だけだったんです。当時の「ぴあ」は今で言うところのYahoo!みたいな成長人気企業。20代後半で予算管理とプロジェクト運営を任されるようなチャンスがゴロゴロ転がってました。
橘:僕が就職したのは80年代の初めなんですが、あの頃はそんなに景気がいいわけでもなく、簡単に就職できる雰囲気はなかったですね。ただ今と違うのは「何とかなるだろう」っていう漠然とした楽観主義。みんな適当に生きてるんだから、自分だってどうにかなるだろうという。今みたいに切羽詰まった感じはなかったですね。
東京の面白さは地方出身者が教えてくれた
湯山:そうね。女性は卒業して「家事手伝い」なんていう肩書があったぐらいですからね。みんないっしょにフワフワしていた。実は私は卒業旅行でインドに行ってるんですよ。何の影響かといえば、藤原新也の『メメント・モリ』。パルコの広告で物議をかもした、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」っていうアレにやられて、即インド。
私の周りには彼が世界を旅して見てきたものに影響を受けて、海外に行った人も多かったと思います。円も高くなって、ここにきてやっと欧米のバックパッカー文化が、一般に降りてきたんですよ。
橘:バックパッカーみたいなものが流行ったのは僕が大学を出たちょっと後でした。『80’s』で書いたように、いちばん勢いがあるという意味でキラキラしてたのは、1983~1984年、バブルのちょっと前じゃないかと思います。バブル最盛期はフィクサーとブローカー、金融と土建屋さんの世界ですから。新しいものがどんどん出てきたのは80年代の半ばくらいですよね。
湯山:東京ってこんなに面白い街なんだということは、当時、地方出身者に教わりましたよ。どんどん新しいお店ができて、情報を持ってないと東京ネイティブでも行けないところが出てきた。彼らの中にあるカッコ良くて、クールでドライ、情報通という東京のイメージ発信は本当に強力で、こっちが田舎者みたいな気にさせられましたよね(笑)。
東京出身者の大学生の模範的態度は「タルいが口癖で、おっとりしているほうが勝ち」のデカダンスですが、それじゃ、ヤバいというぐらいに世の中に活気が出てきた。