地方出身者が作った80年代のキラキラ日本 橘玲×湯山玲子「95年が時代の区切りだった」
橘:渋谷なんかもすごい勢いで変わってましたよね。
湯山:変わってましたね。渋谷系の前夜で、心ある音楽好きはみんな中古レコードを掘っていました。それこそ音楽好きだったら「WAVE」や六本木「ウィナーズ」、青山「パイドパイパー」巡りですよ。あとは名画座だったり。特に私は「ぴあ」みたいな情報誌の只中にいたので、火がついちゃいましたよね。
「良識」ではなく、「カネ」を選択して生き残った
橘:「ぴあ」では何を担当されてたんですか?
湯山:当然、音楽担当と思いきや、なんと、演劇で、それも「寄席・演芸・能・狂言・歌舞伎」(笑)。まあ、ここら辺は詳しいですよ。松竹が「ぴあ」と組んで、歌舞伎を若者にアピールするために「歌舞伎ワンダーランド」という連載を持ったりした端境期を経験しています。
ただ、「チケットぴあ」をスタートするにあたって、それまでの「オペラも日活ロマンポルノも公平・平等に扱う」という基本が崩されていった。チケッティングと一緒にコミットしようと、前売り欄を作り全部で12個のプレビューコーナーを作ったんですが、当時、それだけで演劇界から火の手が上がりましたね。「商業主義に堕するならば協力しない」という劇団も出てきたり。
しかし、実行したら、彼らもシステムを利用してくる。これに類したことは、それ以降、文化系のフィールドで多発していくことになります。演劇っていちばん左翼的な言説が強かったから。反商業主義というか、おカネは汚いというおカネフォビアがあったんですね。
橘:「ぴあ」の中にはそういった資本家・労働者の話みたいなものはなかったんですか?
湯山:ありましたよ。組合もあったし。当時、映画、演劇、音楽、美術担当のエリート社員たちは皆、心情的左翼リベラルですから、そのヒエラルキーはもちろん社内に存在していました。しかし、「チケットぴあ」以降、売り上げを上げる部署と社員が圧倒的に力を持ち出して、立場は逆転。まあ、会社ならば当たり前の話なのですが、そういった、今の政治の空気につながるパワーゲームが目の前に展開されてましたね。
橘:でも、「ぴあ」はそれだから生き残れたんですよね。
湯山:そうなんです。批評も入って、読んで楽しめるカルチャー情報誌だった『シティロード』を大きく引き離していく。
橘:その「ぴあ」もインターネットの時代になって苦労しますよね。やっぱり80年代って、昔の70年代的なものと新しいものが両方あったという意味で面白い時代だったと思います。