大学を辞めたいと思っていると村野さんに言うと
「せっかく入れてもらったんだから、大学は出なさい」
と諭された。
しかし大学2年の時には、村野さんに
「アメリカの企業のバックアップでアニメを作るプロジェクトがある。お前も連れていくから大学を辞めろ」
と真逆のことを言われた。
「そう言われて、嬉々として辞めました。おばにも母にも相談しませんでした。しかしその後、待てど暮らせどアメリカ行きの連絡がきません」
夏になり、村野さんのマネジャーから電話があった。その年(1971年)にアメリカのニクソン大統領が金とドルの交換停止を表明した、いわゆる「ニクソン・ショック」の影響でアメリカの経済の先行きが見えづらくなるため、プロジェクトは中止になったと言われた。
無理がたたったのか、ドクターストップがかかる
「先生からは『お前は一人でやっていけるよ』と言われました。
何はともあれ、とにかく食っていかなければならないから、漫画家としてスタートしました。ただデビュー後、無理をしすぎたのか目の神経がやられてしまいました」
医者からは目の遠近の調節が狂っているから、しばらく漫画は描くなと言われた。
政治系の出版社に入った。広告営業をするような部署だった。インタビューをしたり、プロジェクトを作ったりした。勉強になったし、楽しい経験もあった。
そして24歳の時、中学時代に付き合っていた女性と結婚することに決めた。婿養子に入ったのだが、義理の父は役人だった。
まじめな義理の父は倉科さんに漫画家を辞めてほしそうだった。それでいったんは漫画家は辞めて、市役所に勤めようと決意した。
「市役所に試験を受けに行ったら、中学時代の後輩がいて『先輩!! どうしたんですか?』って話しかけられたんですよ。そいつはすでに役所で働いてたんです。このまま市役所に入ったら、こいつの部下になるのか……と思ったら嫌になって、試験を白紙で出してわざと落ちました。
その頃には目の調子も落ち着いてきてましたし、義理の父には『漫画家として頑張ってみたい』と伝えました」
そして倉科さんは漫画家になった。それ以降は、ずっとフリーランスとして一人で仕事をしている。
「とにかくなんでもやろうと思いましたよ。オリジナル劇画を描き、アダルト漫画も描き、麻雀漫画も描きました」
その頃に描いた作品『俺の愛妻』は評価され、フジテレビの土曜の単発ドラマになった。
連載も同時に3本抱えていた。
ただ、貯金は増えなかったし、気持ち的にもまったく安心できなかった。
「仕事はしてるから食えるのは食えるんだけど、将来は全然見えませんでしたね。怖かったですよ。フリーランスは本当に怖いですよね。
心労からげっそりやせてしまいました。見るに見かねたかみさんの親からは、食わせてやるから帰ってこいって言われましたけど、30歳までは頑張ってみるからと突っぱねました」
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