倉科さんは、当時は漫画原作者をずっと続けていく気持ちはなかった。そのため、倉科遼というペンネームも非常に簡単な気持ちで決めたという。
「原作者としてのペンネームをお願いしますって言われて、どうしようかなと思って。その時たまたま家田荘子さんの『ごろつき』って小説を読んでいたんですよ。主人公の名前が、倉科涼なんです。涼の字を敬愛する漫画家の池上遼一さんの遼に変えました。
同じ雑誌にたくさん原作を書くときは複数のペンネームを使ってましたが、どれもいい加減でしたね。“南条司”は北条司さん(『キャッツ♥アイ』『シティハンター』など)のもじり。“兜司朗”は大好きだった競馬馬カブトシローからそのままとってつけました」
『女帝』の大ヒットを受けて、他社からも原作者としての依頼が舞い込んだ。
週刊誌の連載を同時に3~4本抱えた。
『女帝』はシリーズ化され続編も大ヒットした。ネオン街を描いた『嬢王』『夜王』なども次々にドラマ化された。
「多いときには月産40本の原作を書いていました。多すぎて自分でも書いた作品のタイトルを全部思い出すことはできません(笑)。
いつしか原作が自分の天職だと思うようになりましたね。
でも、漫画はやっぱり漫画家のものなんです。原作者はあくまでサポートにすぎません。
自分はあまり才能がある人間ではないんですけど、唯一才能があるとするならプロデュース能力ですね。漫画家を俯瞰して、その人に合った作品を作る能力はあると思います」
仕事を選ぶようになったら終わりだと思っていた
倉科さんが複数の雑誌を股にかけ大活躍されている時、筆者(村田)はマイナーな出版社のマイナーな雑誌で仕事をしていた。マイナーな雑誌には、小学館や講談社など大出版社で活躍している作者はほとんど描かない。
その雑誌に倉科さん原作の連載が始まった。大物作家が自分がかかわっている雑誌に寄稿している。なんだか光を当ててもらったようで、とてもうれしい気持ちになったのを覚えている。
「そうですね、当時は来た仕事は断らないというスタンスでした。仕事を選ぶようになったら終わりだなって思ってましたね」
倉科さんは漫画家の知り合いはほとんどいないという。
若い頃、漫画家をあきらめて去っていく友人を見送るのがとてもつらかった。だから以来、漫画界に友達を作るのをやめた。
ただ例外的に、谷岡ヤスジさん(『ヤスジのド忠犬ハジ公』など)とは親密で、とてもかわいがってもらっていた。
「谷岡ヤスジさんは常々、『俺は三流雑誌から始まっているから、仕事をくれるならどこでも何でも描く』って言っていました。そのスタンスがとても格好よかったんですよね。自分ももし万が一売れたら、ピンからキリまで全部の雑誌で描きたいと思いました」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら