ある日、父親はよその女を連れて、家にタクシーで乗り付けた。そして家の金庫を持って立ち去っていった。倉科少年は包丁を持って父親の後を追いかけた。その時は、本気で父親を殺してやろうと思った。
母親に「父親と離婚してくれ」と頼むと、それを聞きつけた父親に「だったら家に火をつけてやる」と脅された。
「中学に入って漫画は二の次になりました。中学の3年間は陸上に明け暮れました。父との対立で日常が過酷でしたから、運動に没頭して忘れたかったんでしょうね」
漫画家になるしかないと思っていた
中学3年になり進学の話が出てきた。
経済状況を考えて、高校への進学はできないだろうなと思った。
だったら漫画家になるしかないと思い、再び漫画を描き始めた。そして『少年マガジン』の新人賞に応募した。しかし新人賞に応募するには年齢が足りず、原稿は返却されてしまった。
そんな折、母方の祖母から「東京の高校に通わないか?」と打診があった。祖母にはあまりに衝突している父子を、事件が起こる前に引き離したいという思いもあったという。
「そして東京の高校に入学しました。そこで大きく人生が変わりました。ただ、そこでまた漫画を描くのをやめてしまいました」
高校生活は、倉科さんの隣町のおばさんがスポンサードしてくれた。おばさんには男3人の子どもがおり、加えて倉科さんのお兄さんも上京し一緒に生活していた。その中に倉科さんも加わった。
「男4人が生活しているところに最後に入ったので、家政婦のような役回りになってしまったんですね。日々飯を作ったり、掃除をしたりするのが大変で、漫画を描く余裕はなかったんです」
高校時代は海に遊びに行くような友達もできたのだが、素行不良で全員退学してしまった。結果的に一人になってしまい、仕方なくまじめに授業を聴いた。そうこうするうちに成績は上がり、進学クラスに編入された。
「高校3年生になって、さすがに大学は行けないと思い、また漫画を描き始めました。そうしたらおばさんに大学に行きなさいって言われたんですよね」
受験をすると、明治大学に受かった。先生からは「奇跡だな!!」と言われた。
「自分でも奇跡だと思いました。要領がいいというか、一発勝負に強いんですね」
晴れて大学生になったが、ただ内心では大学に行っても仕方ないなと思っていた。
70年安保の翌年のこと、学内には学生運動の名残があった。試験当日には学内にバリケードができて、試験を受けることができなかった。ヘルメットをかぶった同級生に集会に誘われたが、運動には興味がないと断った。
馬鹿馬鹿しかった。
そのうち大学にはほとんど行かなくなった。
「村野守美先生(漫画家・アニメーター)のアシスタントを始めました。
大学1年の時、村野さんに『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)を紹介してもらい司敬の名義で漫画家としてデビューしました。その年の新人の中では目立つ存在で、高い評価をされたみたいです」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら