野球経験がない男がスカウトに転身した人生 米大リーグ・ドジャースの日本担当を務める
2003年度いっぱいで教員を辞め、2004年4月から国際渉外担当として新たなスタートを切った。海外でプレーする外国人選手の情報収集をし、スカウティングし、交渉して、契約する。プロ野球でプレーした経験のあるスカウトから教わりながら、そうした仕事を進めていった。
また、2006年秋にテリー・コリンズ監督が就任してからは、監督付きの通訳を兼務した(2008年5月の退任まで)。選手と接するときにはどんなに親しい間柄でも公の場では「○○選手」と呼び、頼み事をする際は年下の選手にも敬語を使うなど、リスペクトする気持ちを忘れなかった。
野球経験がないことは、障壁にはならなかった。スカウティングに必要なのは、技術を見る目だけではない。本人の性格や家族のことなど、さまざまな情報が必要となる。英語が堪能であることで、その情報は十分に収集できたからだ。
技術に関して、もし鈴木が「あの選手はこうしたほうがいい」などとプレーヤー目線の発言をすれば、プロ野球を経験したスカウトから「わからないくせに、何を言ってるんだ」といった反発もあったかもしれない。だが、鈴木は「見るプロ」に徹した。だから、周りのスカウトたちは快く、いろいろなことを教えてくれた。
他球団のスカウトたちにもあいさつを欠かさなかった。メジャー・リーグの日本担当スカウトたちのためにチケットを手配するなど、つねに細かな気配りをした。
2014年までの11シーズン、地道に仕事を積み重ねていくなかで、鈴木の存在はメジャー・リーグの各球団のスカウト、GM、編成部長らに認知されていった。
2014年10月。43歳のとき、次の転機が訪れる。大阪シティドームに出向となる辞令が下ったのだ。
京セラドーム大阪のテナント管理やイベントの運営が主な業務。国際担当のスカウトとはまったく異なる仕事だった。周囲には、この人事異動を気の毒がる雰囲気があったという。しかし、鈴木はこれをすんなりと受け入れた。
「まわりには『痛々しい』と思った人もいたかもしれません。でも、衝動的に辞めることはしてはいけない、と。今までは、コストを費やす側だった。今度は売り上げを上げて、利益を生み出す側になる。お客さまが何におカネを払って楽しんでいるのかを勉強する、いい機会でした。新たな挑戦だと、気持ちを切り替えました」
当初は、わからないことだらけだった。テナントの店長やレストランのウエイター、厨房の料理人など、いろいろな人に頭を下げて教えを請い、一つひとつ覚えていった。アイドルグループのコンサートが開催されるときは、来場したファンの列を整理することもあった。
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