野球経験がない男がスカウトに転身した人生 米大リーグ・ドジャースの日本担当を務める

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飯島監督は「経歴以上に、私は自分の目で君を見る」と採用を決め、鈴木は通訳兼マネジャーとしてオーストラリアでの合宿や世界選手権、シドニー五輪に帯同した。

こうしてスポーツ業界で仕事をする経験を得たものの、それだけで十分な収入があるわけではなかった。2000年4月からは横浜市で体育の非常勤講師をしながら生計を立てていた。

スポーツにかかわる仕事をしたいという情熱を燃やし続けてきた鈴木氏だからこその今がある(編集部撮影)

当時、不安はなかったのか? その問いに、鈴木はこう答えた。

「スポーツ業界で簡単に食べていけるようになるとは考えていませんでした。

それでも、とにかくスポーツにかかわる仕事がしたかった。そのためには1つの安定した仕事に就くことだけがすべてだとは思いませんでした。大学卒業後、4年間はアルバイトをして留学費用を工面した。その経験から、『どんな仕事でも食べていける』と実感できたことも大きかったですね」

2001年には教員採用試験に合格。2002年からは教諭となった。その傍ら、2002年の夏休みには、JOA(日本オリンピック・アカデミー)の派遣事業で、ギリシャで開催されるIOA(国際オリンピック・アカデミー)のセッションに出席。2003年と2004年には同セッションで日本人初のコーディネーターを務めた。

33歳で迎えた人生の分岐点

「英語を生かして、スポーツ界に貢献する」という、大学時代に思い描いた人生を歩んでいた。2003年9月には結婚。「体育教員として、生徒たちにオリンピックのことを教えていこう。国際的な人材を育てていこう」と考えていた。

ところが、33歳のときに転機が訪れる。2004年1月。スナイダー氏から紹介された球団関係者との縁で、「オリックス・ブルーウェーブ(当時)が国際担当として、英語で交渉ができて、スポーツのことがわかる人材を探している」という話が舞い込んできたのだ。

「青天の霹靂(へきれき)とは、まさにこのこと。まさか自分に野球の仕事の話が来るとは思っていなかった。願ってもないことでした。野球経験はなくても、自分だからできることがあるかもしれないと考えました」

トライアスロンのナショナルチームでの経験から、トップアスリートへのリスペクトを持っていた。最終面接では、当時常務兼GM(ゼネラルマネジャー)だった中村勝広氏(故人)に「あなたはスポーツマインドを持っている人だ」と評価され、採用が決まった。

教師からの転身。今度の仕事は安定しているわけではないが、迷いはなかった。「どんな仕事でも食べていける。ぜいたくな暮らしはできないかもしれないけど、家族を路頭に迷わせることはない。そんな思いがありました」と鈴木は明かす。

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