そして「独自色」の最たるものが、「選抜」だった。朝日の大会が全国で予選をするのに対し、毎日の大会は有識者からなる選考委員によって出場校が選出された。
② 実力
③ 前年度の成績
当初の選考基準は上記の3つだった。前述したように、この大会は一発勝負の予選で新興チームに敗れた名門校の不満を背景に生まれた。だから「伝統」を最重要視したのだ。
1年目は愛知・名古屋の山本(のちの八事)球場で行われたが、2年目から朝日の大会と同じく、阪神甲子園球場で行われるようになる。以来「春の甲子園」は「夏の甲子園」とともに日本の野球ファンを沸かせる大会となった。
「春」「夏」2回の甲子園大会によって、野球は日本全国に普及した。日本内地だけでなく、当時、日本の植民地だった満州や朝鮮、台湾からも代表校が出場した。
一発勝負の予選を勝ち抜く「夏の甲子園」には、次々と新興チームが登場したが、選考委員が選抜する「春の甲子園」には、名門校が多く出る傾向が強かった。2つの大会にはそうしたカラーの違いがあった。
GHQにかけあって甲子園の接収を解除
終戦後、アメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策の一環として日本人に深く浸透している「野球」を利用することとした。早くも敗戦の年にプロや大学の野球の試合が行われ、翌1946年にはプロ野球のペナントレースと、夏の中等学校野球大会が再開した。この年、夏の大会は西宮球場(兵庫)での開催となった。
しかし、甲子園球場は占領軍に接収され、なかなか使用許可が下りなかった。このとき、GHQを説得したのが大阪毎日新聞代表取締役編集局長の本田親男だった。本田は社会部記者として第3回大会から「春の甲子園」の観戦記を書いてきた。本田らの尽力によってGHQの民生部門トップだった経済科学局長のマーカット少将は接収解除を認めた。マーカットはノンプロでプレーしたこともある大の野球好きだったという。これも幸運だったと言えるだろう。
マーカットは、本田らに1つの疑問を呈した。
「なぜ、大きな全国大会を年に2回も開催するのか?夏の1回だけでいいのではないか?」
今も外国のジャーナリストが発する疑問と同じ質問だ。
春の大会を運営してきた毎日新聞の本田親男は、予選からトーナメントの「夏の甲子園」と、選考委員会が選抜する「春の甲子園」の違いを力説し、マーカットの理解を得たという。
1947年3月31日、6年ぶりに甲子園で中等学校野球大会が開かれた。本田は後に毎日新聞社社長、会長を歴任するが、マーカットの後押しもあって讀賣新聞の正力松太郎とともにプロ野球の2リーグ分立にも尽力。毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)を創設するなど、野球界にも大きな功績があった。
こうした経緯もあって、戦後も「春の甲子園」は、戦後も「夏の甲子園」とは異なる独自色を打ち出していた。
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