手取り15万円で母親を養う30歳女性の苦悩 相談できるような家族も友人もいない

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「私、介護の仕事が憎くて、憎くて。心からひどい世界だなと思うし、許せない。母親を殺すわけにはいかないので、ヒステリーみたいな感じで絶対にダメって言っています。私は低賃金で、これからも給料が上がることはない。普通に暮らすためには、最低でもあと5万円、できれば10万円くらい必要。母親もそれはわかっていて月10万円のおカネを得るには、清掃と介護職のダブルワークするしかないって。なにも答えがなくて、もう生きていくのは無理と絶望しているのが今です」

昨年末、宇野さんは市役所に相談に行っている。窓口にいた役所の人間に生活が苦しい窮状を説明したが、親身には聞いてもらえなかった。「お母さんのために頑張ってください」と励まされ、体よく追い返されている。

「母親は、どう考えても働ける状態じゃない。毎日弱っていく姿を眺めて、この先ずっと母を抱えなきゃいけないのかって、越えられない現実にぶつかった。どう考えても無理だった。だから、役所に私に依存するのではなく、母は母で生きていける術はないか聞きにいったんです。私の知識不足もあって、あまり会話にならないまま、忙しいって話は終わっちゃいました」

彼女は生活保護制度を知らなかった。相談したのは市民相談課だったという。

かなり深刻な「関係性の貧困」

“生活保護制度”と“世帯分離”を携帯で検索して調べるように伝えた。誰か身近に相談できる人間はいないかと聞くと、首を振る。頼れる人どころか、近隣には知り合いすらいない。そして彼女自身は会社の同僚以外、友達や知り合いはまったくいない状態だった。

「埼玉に来たのは、中学2年のとき。他県から夜逃げして、家族で埼玉に来ました。それまではデブってイジメられて、埼玉では言葉が違うって誰にも相手にされなかった。父親は建築系の自営業者で、小さな会社を経営していて、そこを継ぐと思っていた。だから、子どもの頃から工業高校を目指していたんです。その頃、まだ父親とは仲が悪くはなかったから」

近隣の工業高校に進学しても、誰にも相手にされない状態は続いた。イジメられることはなかったが、クラスメイトに無関心を通され、ほとんど誰とも話すことがないまま3年間が過ぎた。

「やっぱり孤独ってつらい。友達に相手にされなくて、友達なんかいらないって思い込んでいた。こんなくだらない人たちと一緒にいなくてもいいじゃないって。こんなくだらない人たちって相手を蔑むことで自分を保っていたというか。周りと私は違うってふうに思わないとやっていけなかった」

カラオケボックスに入店して、1時間半。彼女はかなり徹底してプライドが高かった。取材は若干難航する。人間関係の話でやっと「相手と私は違うと思わないとやっていけない」などの言葉が出たが、入学偏差値40を割る出身高校を上位校のように話したり、勤める埼玉郡部の零細企業や父親の会社を一流企業のように話したり、現実的な状況を理解するのに時間がかかった。

人生や生活において人間関係が極端に少ない人は、相対的な判断基準がズレる。自分のことを著しく高く相手に伝えがちだ。彼女は典型的だった。

さらに、恋愛も一度もしたことがないという。学生時代から現在に至って恋愛経験はなく、「人間嫌いですから」との理由だった。本当に孤独のようで、経済的貧困だけでなく、かなり深刻な関係性の貧困にも陥っていた。

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