ピカソ「ゲルニカ」を生んだのは真実の報道だ フェイクが蔓延する時代のニュースとは
今から約80年前の1937年の4月26日、ドイツとイタリアの戦闘機がバスク人の街であるゲルニカを爆撃し、街の大部分を破壊した。ドイツのコンドル軍団が普通爆弾や焼夷爆弾を用いて街を攻撃し、燃える街から逃げ出す男性や、女性、子どもに機銃掃射を浴びせた一方で、イタリアの戦闘機は橋を標的にした。
ナチスとファシストは、スペイン政府に対する反乱において、フランシスコ・フランコ総統の軍隊のために戦い、違約罰のない内政不干渉協定を無視して、後の独裁者に勝利をもたらす手助けをしたのである。
「スペイン内戦は未熟な空軍を試す機会」
戦後のニュルンベルクでの裁判において、ドイツ空軍の総司令官であったヘルマン・ゲーリングは、「スペイン内戦は私に未熟な空軍を試す機会と、部下たちに経験を得る機会を与えた」と証言した。
今になっても、ゲーリング(そしてベニート・ムッソリーニの)若い部下たちがどんな経験を得ていたのかは明らかではないが、それが正確に爆撃を行うことではなかったのは確かだ。戦略上の標的は橋と兵器工場だったからである。
そのどちらも被害を受けず、バスク人の国の領主が人民の自由を支持することを誓って14世紀に植えられた「ゲルニカの木」も被害を受けなかった。しかし、1937年の爆撃は少なくとも200人の住民(正確な人数はいまだ議論されている)を殺し、さらに何百人もの住民を負傷させた。バスク人の文化的な生活の中心であった街の大部分は破壊された。