「ラーメン凪」を率いる男の挫折とこだわり 何もないところから風を吹かせる

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――壁に貼ってあるのはラーメン、ではなく円グラフのようなものが。

生田 智志(いくた さとし)/凪スピリッツ代表取締役社長。1977年7月30日、福岡県北九州市生まれ。某ラーメン店にて店長を経験、関東出店を機に東京5店舗のエリアマネージャーを任される。熊谷正寿の著書「一冊の手帳で夢は必ずかなう」に感銘を受け、将来の地図を作成。ニューヨーク旅行で出会った様々な民族の活気ある姿に、日本人としてのアイデンティティを持った飲食店の開業を決意。04年8月、28歳で独立。新宿ゴールデン街で『火曜日限定ラーメンバー凪』仮営業開始。06年6月、渋谷本店を創業。現在、国内及び海外(香港、上海、シンガポール、インドネシア、台湾、フィリピン)を直営経営。さらにアメリカ進出と常に挑戦を続けている。公式サイト

生田氏:これは「エマジェネティックス」といって、社員それぞれの思考特性(黄=コンセプト型、赤=社交型、緑=構造型、青=分析型)を4つの色と、3つの行動特性(自己表現性、柔軟性、自己主張性)で表したものです。それぞれの適正に合った仕事の進め方、接し方を実現するため、各人の特性を可視化すべく取り入れたシステムです。無理をして仕事をこなしていくよりも、自分の特性にあったことの方が効率よく、ミスマッチのない幸せな働き方に繋がると考えているからです。

こうした「働き方」の施策は他にもたくさんあるのですが、一つひとつは私自身が、大手ラーメンチェーン店で働いていた“修業時代”での経験や、その後、四畳半からスタートしたラーメンづくり、間借り経営からの試行錯誤の積み重ねのすべてが元となっています。

私は九州の出身ですが、もともと大のラーメン好きでこの道を志したというわけではなく、自分にできることを少しずつよい方向に向かわせるために、できることをやって来た結果が、考えてもみなかった今の道に繋がりました。

警察官を志望した少年がラーメン業界に入った理由

生田氏:小さい頃から、自分が置かれた環境の中で、どうしたら「少しよくなるか」を工夫し、それを楽しむというクセがありました。“興味のあること”や“やりたいこと”のためには必要な工夫はとことんやる性格で、それは中学からはじまった部活にも表れていました。自分は運動神経がよい方ではなかったのですが、どうせやるなら「活躍したい」。当時、競技人口もそう多くはなかった「テニス」をやろうと考えたんです(丸坊主にしなくてよいということもありましたが)。ただ、自分には優れた運動能力があったわけでもなかったので、周りの人の練習量を試算し、人が1時間走れば2時間を自分に課す、というそれを補う「活躍するための工夫」をしていました。

――生田さんにとって工夫は、生存戦略でもあった。

生田氏:実は、私が17歳の時に親父が亡くなっているのですが、その時も、置かれた状況下で、自分がどうやって生きていくのか、夢との折り合いをどう付けるのかを考えていました。高校卒業後に私が志したのは、幼いころテレビで見て憧れた「警察官」でしたが、まずは新聞奨学生として働きながら目指すことにしたんです。学費などの経済的な負担はかけられないし、とはいえ勉強しなければ受かりそうにもなかった自分の実力も感じていて、新聞奨学生としてなら、働きながら公務員予備校にも通えるという判断でした。

地元の北九州から、予備校のある福岡へ。新聞奨学生の寮に住み込みで働きました。新聞奨学生という仕事はなかなかハードなもので、その中で勉強の時間を確保するのには苦心しました。いかに効率よく集金するかとか、折り込みチラシの折り方を工夫するだとか(笑)。結局、実家に戻って勉強する方が効率よいと途中で気づき、そこで生活のためにと働き始めたのが、九州を拠点にした大手ラーメンチェーンだったんです。

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