三国志の英雄たちは実は「ダメ上司」だった 曹操・諸葛亮は「リーダーの反面教師」だ
次は、曹操の魏、劉備の蜀に並ぶ、呉を建国した英雄、孫権(そんけん)の話です。
孫権:身内の騒動で失速した「優柔不断オーナー」
彼の強みは、神がかった人材登用術でした。「赤壁(せきへき)の戦い」では周瑜(しゅうゆ)を用いて魏を破り、「荊州(けいしゅう)攻め」では呂蒙(りょもう)を用いて関羽を破り、「夷陵(いりょう)の戦い」では陸遜(りくそん)を用いて劉備を破るなど、「当たり采配」によって強固な地盤を築きます。
孫権は人材をうまく使いこなせる、調整型のリーダーでした。しかし、一言で調整といってもいろいろな形があり、本人の得手不得手はやはりあります。孫権は、人材登用能力が優れていましたが、利害調整に失敗し、自らが建国した呉を滅ぼす遠縁をつくってしまいます。
孫権が60歳になる頃、孫権の息子たちの間で後継者争いが勃発します(二宮(にきゅう)事件)。赤壁の戦いで魏を倒してから35年が経ち、呉も順調に発展して、余裕が出てきた時期です。臣下たちは自分の勢力を拡大することばかりを考え、家臣団が分裂します。そこに後継者争いが始まったため、臣下たちはそれに便乗し、勢力を伸ばそうと騒ぎはじめました。
孫権は、この騒ぎを収拾するどころか、家臣団や身内の讒言にふり回され、名将の陸遜を含めた優秀な配下を次々と処刑してしまいます。自分の子どもたちに関することでもあり、孫権は優柔不断のまま有効な手を打たず、内紛で国が滅びる寸前まで追い込まれてしまいました。
一方、魏でも曹操(そうそう)の息子たちである曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)が後継者争いを行いましたが、曹操は曹丕を後継者に指名したことで争いは収まり、後の世代でも安定した治世が続きました。
有能なトップが一代で築き上げたオーナー企業が、“身内争い”によって崩壊するのは、ビジネスの現場でもよく耳にします。どのような組織においても、後継者をしっかり決めるということは、リーダーの「最後の責任」なのです。
では、三国志随一の強者・曹操はどうでしょうか?
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