以上をベイスターズ成功の「本当の理由」として、以下、20年以上横浜に住み続けている、プロ野球ファンの50歳男性(=私)として感じた、ベイスターズ成功の「意外な理由」について書いてみたい。それはユニフォームの話だ。
オヤジには違和感のあるユニフォーム
DeNA傘下となってからのユニフォームについて、評判が分かれているのである。ここからは定性的な分析となるが、ネットやクチコミを見てみれば、若い層では比較的好評なのだが、年齢が上の層においては、違和感があるというコメントが散見されるのだ。私の友人で、私と同世代のベイスターズファンでさえ、現在のユニフォームについては、「ちょっと子供っぽくて苦手だ」と話していた。
ただし、その友人は、「最近のデザイン変更で、少し違和感は減ったけどね」とも補足していた。ちなみに、2015年のホームユニフォーム変更には、「海と港の街」という象徴的なイメージを保ちつつ、過去の歴史や伝統を継承し、さらなる進化を遂げていきたい、という球団の想いが込められているという。2016年シーズンより、ビジターユニフォームもモデルチェンジし、胸に「YOKOHAMA」のロゴが入った。
さて、「子供っぽい」ということは、子供には似合うということだ。
事実、冒頭に書いた小学生に、今のベイスターズのあのキャップはよく似合っていた(なおベイスターズは、2015年12月、神奈川県の小学校・幼稚園・保育園などに通う約72万人の子供に、キャップを配布)。
私は、このユニフォーム(やキャップ)のデザインに、野球好きオヤジよりも、横浜の小学生を優先するターゲット戦略を読み取るのである。さらに言えば、「昭和の横浜」の呪縛からようやっと解放され、そして「平成の横浜」に寄り添ったマーケティング戦略をも。
ここで、歌謡曲の本も出している音楽評論家として言わせてもらえば、昭和歌謡には、横浜を舞台とした曲がやたらと多い。ざっと思いつくだけでも、以下のようなものがある。
・青江三奈「伊勢佐木町ブルース」(1968年)
・いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)
・ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年)
・木之内みどり「横浜いれぶん」(1978年)
・桜田淳子「追いかけてヨコハマ」(1978年)
・近藤真彦「ヨコハマ・チーク」(1981年)
「昭和の横浜」は、東京よりもおしゃれでハイカラで、ちょっと危険な繁華街で、歌謡曲の舞台としてピッタリだった。その背景には、もちろん、米軍やその家族を中心とした外国人が多かったことがある。
しかし1982年、本牧にあった米軍住宅の返還を機に、「おしゃれでハイカラでちょっと危険」という「横浜らしさ」が失われ、横浜経済も地盤沈下、東京の衛星都市の1つに成り下がっていく。
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