ならば海外だ。国境を越えれば選択肢が増えるし、欧米の大学院ならうまくいけば十分な奨学金が出るので生活に困ることもない。ということで、博士課程に進学後、北海道大学に籍を置きながら海外の大学院を複数受験した。そして、米国のある大学に見事合格。本格的に留学に向けて準備していたところ、合格通知の後にもう1通の手紙が届いた。今年は奨学金が出ないという。1990年代前半当時の米国は景気が最悪の状態で、大学に割り当てられる予算が例年に比べて極端に低く、どうも留学生に回す奨学金の余裕がなくなったらしい。
「それでもいいなら来てくれということでしたけど、研究期間にはだいたい800万円くらいの生活費がかかると。それで、自費で暮らしていける証明に800万円以上の預金残高の写しを送ってくれと言われたんですよ。あるわけないですよね(笑)」
海外留学をあきらめ、北海道大学大学院の農学研究科で研究を進めること6年。1998年3月に博士後期課程を修了し、博士号を取得する。その翌月には日本学術振興会特別研究員という身分を得て、同大学の別の研究室に籍を置くことになる。いわゆるポスドクだ。
博士号を取ったあとに日本学術振興会特別研究員として3年間給与をもらいながら、大学を含む研究機関に籍を置き、そこで実績を作って大学の教員募集があったときに申請するというのがアカデミックな世界の王道の1つとなっている。特別研究員の競争率は高く、採用されなかったらあえて博士課程で留年して再チャレンジする人も珍しくない。小松さんも2度目の申請で採用された。
大学に残るという選択肢はすでに…
しかし、この時点ですでに小松さんの頭の中には大学に残るという選択肢はなくなっていた。思い描いていたのは新しい研究室を自分で作るというプランだ。
「私の研究は当時の感覚でいえば直接ビジネスにならないものなので、単独では成立しません。なので、研究に興味を持っている民間団体に働きかけて、その内部に本格的な研究がやれる環境を構築し、そこのスタッフになるということを考えていました」
当てはあった。多言語を自然習得することを目的としている民間団体・言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)だ。
学部生の頃、この団体が出版した『フーリエの冒険』という本に感銘を受け、学会で東京に行った際に本部に押しかけて以来、長らく交流を持っていた。
「赤ちゃんが母国語を耳で覚えるように、大人でも多言語を音で聞いて習得できないだろうかと研究している民間団体です。人間の言語習得のプロセスやメカニズムを自分たちで調べようとしていて、『フーリエの冒険』もその取り組みの中で生まれたんですよ。
フーリエはどんな曲線でも三角関数で表せることを発見した人なんですけど、その法則や構造を理数系に詳しくない人がマスターするのはかなり大変です。彼らは相当苦労してそれをやった。音声を周波数でとらえてメカニズムを調べようと思ったら外せない領域ですからね。
そして、理解する過程をそのまま1冊にまとめたのがこの本なんです。何も知識を持たないところから始めているから、ものすごく読みやすくて、大学の書店のなかでも異彩を放っていました」
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