そこまで真剣に取り組んでいる団体でありながら、内部スタッフにプロの研究者はおらず、外部の研究協力者に頼る構造になっていた。しかし、交流を重ねるうち、自前で研究して論文を作りたいという意思があることを知る。そこに小松さんの意思が絡んでいく。
「ならプロの研究者を雇って、研究する環境をつくらないとダメですよ」
「そうなんですけど、雇ったことがないからどうしたらいいかわからないんですよ」
「では、いくつか雇用パターンを用意しますから、どれか条件が合致するもので私を雇ってください。赤ちゃんを含むヒトの行動パターンを分析するなら、私の生物学の知見が役に立ちますから」
かくして2001年4月、学部から16年間過ごしてきた北海道大学を後にし、小松さんは言語交流研究所初のプロの研究者として雇われることになる。34歳になっていた。
研究所は渋谷にあり、東京での暮らしが始まった。すると面白いことが起きる。
札幌にいたときよりも
「学部や修士で卒業していった仲間の多くは東京で就職しているので、札幌にいたときよりも友達と交流するようになりました。ずっと地元にいたのに札幌時代のほうが仲間が近くにいなくてさみしかったくらいです」
かつての仲間はそれぞれの組織でそれなりに決定権のある地位に上っていたり、膨大な人脈を築いたりしていた。飲み会に呼ばれて、雑談の流れで生き物の話をしていると、宴席の誰かがビジネスの表情で耳をそばだてているといったことも起きるようになった。生き物のことを聞かれれば知っているかぎり答える。子どもの頃からの性分だ。しかし、反響は友達の感心顔や賞賛だけではなくなっていた。
「時代的にも環境問題が叫ばれるようになっていて、生き物の世界とビジネスの世界がつながりやすくなっていたところもあります。『ウチはいまこういう開発しているけど、元からいる生き物は大丈夫かなあ?』と相談されたりしましたね」
上京して1~2年もすると、そうした相談は飲みの席にとどまらなくなる。方々の機会で知り合った人が組織人として、正式なアドバイザリー契約を申し出たり、プロジェクト単位で協力を要請されたりするようになった。
言語交流研究所に勤務中はその仕事に集中し、平日夜や土日などを使って、そうした副業の仕事をこなす毎日。しだいに副業のボリュームが増えていき、内容的にも興味が引かれるものが多くなっていった。忙しくなるにつれて収入も上がり、本業を上回る月も珍しくなくなった。
それなら、このスタイルで十分食べていけるんじゃないか。
そう思い立った小松さんにもう障壁はない。2004年4月、言語交流研究所との雇用契約を非常勤の技術アドバイザーに変更し、事実上のフリーランスとなった。そして、自宅兼事務所に小松研究事務所を設立。ネーミングは、弁護士や司法書士などの士業事務所を参考にした。
士業と同じようにプロの研究者が拠点を構えて、さまざまなクライアントに相対して報酬を得る。そういうスタイルを体現したものだ。肩書はネットの新聞記事で見掛けた独立系研究者を採用した。イギリスの独立系研究者(Independent Researcher)が組織を作ったというニュースの訳文が元。海外では当時から独立系研究者が活躍していたわけで、同じ研究職でも身の処し方に国ごとの差が大きかったことをうかがわせる。
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