ノーベル化学賞「最有力女性科学者」の偉業 クリスパーを開発した科学者の手記を読む
予測しがたい濫用や悪用のおそれにさいなまれるダウドナが、不気味なブタの顔をしたヒトラーに協力を求められる悪夢を見る場面は暗示的だ。紙とペンを用意して待ち構えていたヒトラーは言う。
「君が開発したすばらしい技術の利用法や意義をぜひとも知りたいのだよ」
こうした負の可能性に気づいたダウドナは、自ら考察を深めるとともに、他の科学者や生命倫理の専門家と提言を発表し、一般の市民とも積極的に対話を重ねていく。それまでの研究室に閉じこもる人生から、社会に飛び出し、発言する科学者へと変貌を遂げていく姿は、第2部の白眉だ。
細菌が長い時間をかけて編み出してきた複雑で多様な免疫の仕組みが、やはり40億年の進化の歴史を経て紡がれてきた地球上のあらゆる生命の設計図を、いとも簡単に書き換える手段に生まれ変わった。
「まずやってみて」からの議論では遅すぎる
ダウドナは、この技術の革新性を1910年代から始まった量子物理学の切り開いた地平と対比し、核兵器開発に携わった科学者が何を語っていたかに注目する。自らが勤めるカリフォルニア大学バークレー校の先輩でもあるロバート・オッペンハイマーは、マンハッタン計画を主導したが、原爆の投下後、「科学者は罪を知った」という悔恨の言葉を残した。戦後、より破壊力の大きい水爆の開発への意見を議会で求められ、次のように述べて反対したという。
「(科学者は、)技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる、それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と考えるものです。原爆では、まさにそうだった。原爆の製造自体に反対した人は誰もいなかったように思います」
「まずやってみて」からの議論では遅すぎることを、原爆は示した。同じ轍(てつ)を踏まないために何ができるのか。苦悩しながらも行動するダウドナには、ある揺るぎない信念がある。
それは、技術の使い道を決めるのは、社会であり、あなたたちであり、私たちであるということだ。ただし、議論を始めるには、まずどんな技術であるのかを知ることが不可欠だ。だからこそダウドナは、この技術を誰よりもよく知る科学者として、わかりやすい言葉で伝える本書をつづったのである。
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