凱旋門賞制覇へ!理と情熱のホースマン 新世代リーダー 池江 泰寿 JRA調教師
騎手から調教師に転じた父の背中に憧れ、泰寿は小5のころから乗馬を始めた。その前後から「自分は調教師になる」と完全に決めていたという。世界最高峰のレースである、凱旋門賞を初めて知ったのは小3のときだ。日本の競馬とは、まったく雰囲気の違う写真を見て関心を示す息子に、凱旋門賞の存在を教えてくれたのも、父だった。もっとも小学生時代の泰寿にとって、凱旋門賞とは、「別世界のもので、雲のまた上のような存在だった」という。
いったん、調教師になることをあきらめた
だが、当たり前のように調教師になると思い込んでいた泰寿に早くも大きな挫折が訪れる。それは「身長」だった。
当時、調教師になるには、まず騎手として経験を積んだ後になるのが一般的だった。だが、身長が伸びすぎると騎手になることはできない。騎手の身長の目安は160センチメートルとも言われる中で、泰寿少年の身長は中2の時に無情にも170センチメートルを優に超えてしまっており、「書類選考すら通過できない」レベルだった。
「騎手への道を諦める」。それは同時に「調教師になる」夢を諦めることも意味していた。
だが、泰寿が騎手への道を諦め、落ち込んでいた時に、調教師になる「別の道」があることを教えてくれたのも父だった。一般的なルートではなく、極めて狭い道だが、騎手を経ず、調教助手という厩舎のスタッフを経て調教師になることも、制度上は可能だったのだ。
再び調教師を目指すことを決めた泰寿は、大学進学の後、調教助手になる。すでに幼なじみだった武豊は騎手としてデビュー、晴れ舞台で天才の名をほしいままにしていた。
泰寿は、当初は父の同門の兄弟子・浅見国一厩舎、その後は父の厩舎で地道に修業を積み続けた。そして2003年、ついに年間数人しか受からない超難関の調教師試験に合格。父泰郎、息子泰寿という、親子調教師が誕生した瞬間だった。