イータッタッタッタッタッタッタッタッタッタッ、痛ッ!!!
というわけで私は本日、昼過ぎから深夜まで香港と韓国の友人でセッコウビーチ(香港)でバーベキューを楽しんでいたのだが、完璧な一日だと思っていたのに最後の最後で大どんでん返しをくらい、卵をたくさん抱えた“お母さんカニ”に手痛い一撃を食らってしまった。
それがあまりにも痛く、そしてなかなか離してくれず、お退き(おどき)頂けるようそっと触っても怒りのハサミの力で私の指をねじ上げてくる。一緒に来ていた友人に助けを求めたら、その人が強めにカニに触ったのでカニが更に怒り、私への攻撃の手を緩める気配はない。
有効な対応策を繰り出せないまま、非常に長い間カニに挟まれ続けていた、エエ年超えたグローバルエリート。その間私がカニに挟まれながら自省した内容を読者の皆様に伝え、今後二度とこのような悲劇が繰り返されないよう、私がカニに挟まれながら考えたことを親愛なる読者の皆様と共有したい。
出来心の愚かさ~特に目的のない、カニとの追いかけっこ
このカニさんとの戦いは、もとはといえば、出来心であった。私は昔から魚とかカニとかが大好きでよくペットとして飼っていたのだが、三つ子の魂100までとはよく言ったもので、昔ながらの好奇心を刺激されそっとカニに近寄ったのだ。
しかしながらカニの動きは敏捷で、太ったおじさんを振り切るのはいとも簡単だ。数分の神経戦の後、必死に追いかけてベンチの隅にカニを追い詰め、上からサッとカニに多い被る形でその動きをとらえたかに思えた。ところがカウンターで瞬時に指の一番痛い部分を挟まれてしまい、あまりの痛さに身動きが取れずに立ちすくむ結果となってしまったのだ。
負けるはずの無かった戦いに、負けた理由は?
今回のカニとの戦いは、本来負けるはずのない戦いだった。私の体重110キロ。カニの重さおそらく5グラム。実に22000倍の大きさの違いであり、これは人間界に例えればアメリカが全軍隊を上げてタイ北部の数百人の少数民族に襲い掛かるようなものではないか。格闘技でいえばボブサップが小学生のエアロビクス・ボクササイズ初級の加奈ちゃん(8歳)に全力で殴り掛かるようなものである。
私は昔、テレビで巨大なシャチが小さなオットセイを空中に放り投げて遊ぶシーンを見て「ひどい奴だなシャチは……」と憤ったことがあるのだが、この22000倍の体重差を考えれば、私はその酷いシャチ以下、ということになる。ここでのポイントは、私が大した考えもなく、安易にカニに挑んだ原因の裏側に、“このカニに勝つのは楽勝”という驕りがあったからだ。
これが私がかつてケニアのラム村やシンガポールのレッドチリとして調理される前の、マレーシアからやってきた巨大なクラブ(全長40センチくらいあり、人の指を引きちぎる力を持つ)だったら私は返り討ちを恐れて安易に戦わなかったはずだ。
国際政治の平和理論の一つで“軍事力の均衡が戦争をなくす”というのがあるが、それはあながち間違いではなく、周辺国を圧倒するほどの強大な軍事力も、圧倒されるほどの弱小軍隊も、結果的に戦争のリスクを高めることを示唆している。
人間の残酷さの源泉とは?
また、このカニさんのお腹(冒頭の写真参照)に注目してみてほしい。彼女は大量の卵を抱えており、必死に命を次の世代につなごうとしている。気になってネットで調べたらカニの卵は数万個に上り、外敵があまりにも多いから数を一杯残して生存を図るらしい。カニにとっては私のような危険なグローバルエリートを含めた外敵に急襲されることも、織り込み済みということか。
このようにカニが卵を大量に生んで、必死に命を繋いでるのに、考えてみたら人間がイクラを食べるというのは極めて残虐な行為ではないか。鮭は遠い海から何年も前に自分が生まれた生まれ故郷の川を覚えており、命がけで人生、というか鮭生に一回だけ帰ってくる。
そして体力を使い果たしてボロボロになってでも、産卵して散乱した直後に力尽きるのだ。そんな悲愴な思いで帰ってきている鮭、生まれ故郷だけは安全だと信頼して帰還した鮭を捕まえ、腹を引き裂いて卵を取り出し、挙句の果てにその親の肉と一緒に親子丼として食べるのだから、この残虐さたるや他に類を見ない。人間が逆の立場だったら、これほどむごい殺され方は無いだろう。
人間はその対象を“自分達よりも劣っている”“自分のために仕える存在”とみなすことで、日常生活に適用している倫理や規範とは全く別の、非日常の倫理規範の中で対象物をいかほどにでも残虐に扱うことができる。だからこそ他者を平等とみなし、他者への尊敬を持つことが大切なのだろう。
これは冗談でも何でもなく、“他者を自分の頭のなかのどのカテゴリーに入れるか”次第で、相手に対する振る舞いが大きく変わってしまうものなのだ。
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