また、男同士の争いや競争は許容されても、女性同士のいさかいは「姦(かしま)しく醜い争い」として忌み嫌われる、という研究もある。以前、小池東京都知事が「女性同士の嫉妬はかわいいもの、男性の嫉妬は時には国を危(あや)めることもあると思う」と指摘したが、男性にも激しい嫉妬やおとしめ合いもあるものの、女性の嫉妬のほうが厄介で扱いづらいとみなされる。
女性は、過度に「いがみ合う」というスティグマ(汚名)を着せられている節もある。そもそも、女性は優しく、守られるべき存在であるべきという固定観念が強いので、男性と同じような強い口調で話すだけで、「攻撃的」「ヒステリック」という印象を与えてしまうハンデがある。
「割り当て」がなくなれば意識は変わる
こうした女性上司=ビッチ(いじわる女)説は、歴史的・文化的な背景によって人為的に醸成されてきた側面もある。そもそも、組織の中で経営幹部に女性が登用されることが圧倒的に少なかったわけで、「会社として、女性を1人、幹部に登用すればそれで十分とする考え方がある」とコロンビアビジネススクールの研究は指摘している。
1人の女性が幹部に登用されると、別の女性が幹部になる可能性は50%下落するのだという。つまり、女性に限っては「自分か、ほかの女性か」という決断を迫られてしまう。そうした中で、「まずは自らの地位を確実にする」という方向に考えが働いてしまうというわけだ。女性幹部がもっと増えることで、こうした「割り当て」がなくなれば、意識は大きく変わる可能性が大きい。
また、部下の立場からすれば、男性が圧倒的に多い組織の中で、男性上司のほうが組織の中で力を持ちやすく、男性同士のネットワークなどを活用して、後々、自分を引き上げてくれたり、後ろ盾になってくれるのではないか、という期待感も潜在的にあるだろう。一方、数の少ない女性上司は孤立しがちで、バリバリと出世して、将来的なコネになりそうなイメージが薄い。
女性の社会進出が加速度的に進む一方で、リーダーシップ層への登用はなかなか進まないのは、決してその資質の問題ではない。女性は実はリーダーとしての素養が男性同様に、もしくはそれ以上に高い、という研究も多くある。社会的・歴史的な慣行やバイアスの積み重ねが女性たちの大きな足かせとなっている側面はあるだろう。
政府や企業が女性活躍推進をうたうのであれば、数合わせのような外形的な制度整備だけではなく、コミュニケーションの「ジェンダーギャップ」を踏まえたリーダーシップ教育の視点も求められているのではないだろうか。
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