「20兆円、徳川埋蔵金」は本当に実在するのか 隠し場所は「赤城山」か「あの場所」か?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

Q6. その蒸気船の「正体」は?

仙台伊達藩の所有する「早丸」という軍船です。全長46メートル、2本マスト、418トン、当時最新鋭だったスクリュー動力の鉄製蒸気船でした。

1858年にイギリスで建造され、アメリカの南北戦争で使用されたこともありました。1867年に仙台伊達藩がアメリカから12万ドルで購入し、「早丸」(宮城丸とも)として兵員、武器、物資輸送に活用しました。

徳川御用金は「早丸」の中に?

Q7. その「早丸」が「幕府御用金」を積んでいたのですか?

そう考えられる根拠は十分あります。

「早丸」は、江戸無血開城が行われた5日後の、慶応4年4月16日夕刻(新暦では1868年5月8日)に、横浜を出港します。

目的は「中国の上海で貿易を行うため」でしたが、実はそれらはすべて真っ赤なウソで、本当の使命は「徳川幕府御用金400万両の密送」だったといわれているのです。

Q8. 具体的な根拠はあるのですか?

決定的なものはありませんが、早丸の行動には不審な点が見られます。

出航にあたり、早丸は仙台藩所属の日本船であるにもかかわらず、なぜか「ブルガリア国旗」を掲げ、外国人を多数乗船させて、外国船を装いました。

さらには、わざわざ見通しの悪い夜に、水先案内人も手配せずに出発しています。

Q9. でも戊辰戦争では「仙台藩は当初は官軍側」だったのでは?

はい。仙台藩は当初の所属は官軍でした。

ただし、実際には倒幕への意識は希薄で、旧幕府側との全面対決を回避していました。そしてその後、旧幕府側として奥羽越列藩同盟を結成し、官軍と激戦を繰り広げて敗北します。

実は仙台藩主、伊達慶邦の妻(継室)は、15代将軍徳川慶喜の実妹で、慶邦と慶喜は義理の兄弟という間柄でした。

Q10. そうなると、仙台藩は幕府側にとって「絶好の隠れ蓑(みの)」になりえますね。

幕府御用金のような重要品を「一時的に預ける相手」としては最適です。

官軍が江戸に入城しても、味方である仙台藩の江戸屋敷には詮索の手は及びません。さらに、仙台藩は大藩のため江戸市中に多数の上中下屋敷を保有しており、その上屋敷は江戸城から約4キロメートルの芝口(現在の港区東新橋、日本テレビのある旧汐留操車場のあたり)にありました。汐留川に面した屋敷内の石垣造りの船着き場から、直に東京湾への水運ルートに通じる絶好のロケーションです。

ちなみにこの場所からは、汐留再開発工事の発掘調査で、堅牢な石垣の船着き場が発見されています。

Q11. 「早丸」は、江戸の伊達屋敷ではなく、横浜から出航していますが?

当時の東京湾は水深が浅く、大きな蒸気船は江戸城近くまで入れません。

しかも、蒸気船は非常に目立つうえ、江戸一帯は官軍の監視が厳しくて迂闊(うかつ)な接近は危険です。横浜までの御用金の運搬は「一般の荷船や漁船を装ったもの」と考えられます。

次ページ沈没した「早丸」はどこに?
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事