「20兆円、徳川埋蔵金」は本当に実在するのか 隠し場所は「赤城山」か「あの場所」か?
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
徳川だけでない「埋蔵金」伝説
Q1. そもそも「埋蔵金」なんて本当にあるのですか?
今回の「徳川幕府御用金」をはじめ、その真偽はともかく、日本国内だけを見ても、いわゆる「埋蔵金伝説」は数多く存在します。代表的なのは、下記の4つでしょうか。
豊臣秀吉は最晩年、幼い息子秀頼の将来を案じ、自らが蓄えた4億5000万両と金塊3万貫(112.5トン)を大坂城からひそかに多田銀山へ運び、坑道の奥深くに隠して閉山したといわれます。
そのありかを示すとされる巻物や絵図は、数多く伝わっています。
武田信玄は領国内に数多くの金山を所有し、これを「棒道(ぼうみち)」と呼ばれる軍用道路の各所に隠すよう、娘婿である腹心の部下、穴山梅雪に命じました。
武田家が滅んだあと、穴山梅雪は「本能寺の変」の混乱時に、一揆に襲われ命を落としますが、「このとき梅雪が所持していた書付(かきつけ)にその埋蔵場所が記されており、一揆の者たちがその幾分かを手に入れた」といわれています。
「本能寺の変」で織田信長を倒した明智光秀は、信長の居城である安土城に蓄えられた莫大な黄金を手に入れると、この一部を朝廷や貴族、味方の諸将へと配り、さらに味方を募るつもりでした。
しかし、豊臣秀吉の素早い帰還によって明智光秀は破れ、「一族の明智秀満が、これを明智光秀の居城である亀山城ほか琵琶湖などに隠した」とする言い伝えや古文書が残されています。
世界遺産で知られる岐阜県白川郷の付近に、戦国大名内ヶ島(うちがしま)氏の居城である「帰雲(かえりくも)城」がかつて存在していました。
内ヶ島氏は近郊に点在する金山経営で栄華を誇っていましたが、天正13年(1586年)11月29日の深夜に、この地域をマグニチュード8.1の大地震が襲います。
その際、大規模な山崩れがあり、帰雲城は城下、住民もろとも跡形なく埋没してしまいましたが、一説にはそこに「5000億~2兆円の黄金が眠っている」ともいわれています。
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