「20兆円、徳川埋蔵金」は本当に実在するのか

隠し場所は「赤城山」か「あの場所」か?

Q12. 「早丸」はその後どうなったのですか?

三浦半島付近で遭難、沈没してしまいます。

横浜を無事出発した「早丸」は、外洋に向かうため浦賀水道に入り、三浦半島の観音崎を経由して久里浜沖にさしかかりました。

ところが、夜間で見通しがきかなかったことに加え、当時は目印となる灯台もなく、水先案内人を同乗させていなかったことから、「海獺島(あしかしま)と笠島の間にある暗礁」に乗り上げ、まもなく笠島の南方数百メートルの地点で沈没しました。このときの死者は約60人にも上り、39人が沖に出ていた漁船に救助されています。

Q13. では「早丸」の積み荷の行方は? 海底のままですか?

はい。いまも多くは海底に眠ったままです。この地域で漁を営む人々の話では、海獺島の南方約300メートルの場所に船が1隻沈んでおり、いまも網がよく引っ掛かるとのことで、これが「早丸」だという説もあります。

事故当時、早丸には幕府御用金400万両のほか、メキシコ銀貨(当時の国際通貨)6万ドル、伊予別子銅山産の銅104斤、欧州産青銅製の器物40万斤、毛織物・生糸・小銃弾薬等の雑貨200箱、越前藩が作らせた黄金の灯籠、仙台藩の黄金53万両が一緒に積まれていたとされ、沈没後、付近の海岸には唐糸、生糸といった積み荷がいくつか漂着したようですが、金銀についての報告はありません。

その後、明治から太平洋戦争中にかけて何度か探索されたものの積み荷は見つかりませんでしたが、昭和57(1982)年1月27日、天野富太氏による調査で、1個の重さが22キログラムある地金(インゴット)らしき銅21個が引き揚げられ、「早丸」のものではないかと注目を集めました。

近年では、NHKの協力のもとで本格的な水中探査も行われましたが、「早丸」と同じ蒸気船らしき船体が発見されただけで、金銀のたぐいは発見されていません。

明治維新が遅れた可能性もあった

もし、「早丸」に幕府御用金が積まれていたのが事実で、さらに不幸な遭難を逃れていたらどうなっていたでしょう。

おそらく、船の行き先が上海というのは偽装で、旧幕府はこれらを軍資金にフランスやアメリカから軍艦や大量の武器を購入し、官軍に向けて反撃に転じていた可能性もあります。その場合、明治維新は実際よりも遅れるか、もしくは明治そのものが訪れなかったかもしれません。

歴史には、まだ史実として認められていない不確かな伝承や事柄が数多く存在します。

そうした一つひとつが具体的証拠の発見や研究の成果により事実として立証され、その成果を現代の私たちは「歴史」として学んでいます。近年も歴史の研究は進んでおり、ここ数十年で日本史もまた大きく進化を遂げています。

歴史には、知れば知るほど、こうした「ロマン」がいくつも隠されています。歴史を学ぶことは、「教養」を高めると同時に、それ自体が「知的な楽しみ」でもあります。

ぜひ歴史を学び直すことで、学生時代には味わいきれなかった「大人の知的な楽しみ」を実感してください。

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