では、このことから抜け出る道はあるのか? あるのです。それは、われわれがどうしても生きるためにウソをつかざるをえないのなら、せめて「ウソをつくべきではない」という原則を投げ捨てること。そしてウソをついても平然としていること。いいですか? ウソをついていないとウソを重ねることではなく、「ウソをついてなぜ悪い、俺はウソをついているが悪くない」と居直ること、そして、ウソをついた人をけっしてウソをついたゆえに責めないこと、子供たちにも「ウソをつくことは悪いことだ」と教えることをやめることです。もう少し細かく言いますと、ウソによって被害が生じた場合だけ、(本当のことを言って被害が生じたことと同様に)責めること。すなわち、「ウソをつかない」ということを人間としての美徳から外すことです。
「誰も守れない」原則を後生大事にする不思議
しかし、どうもこれは実現できない。朝から晩まで巧みにウソをついている人だらけなのに、「ウソをつかない」という誰も守れない原則を後生大事に保存しているのは不思議と言うよりほかにありません。
これがなぜ実現できないのか、このあたりに理性的人間の「本性」があり、カントは「ウソをつくべきではない」という大原則をどうしても捨てきれず、しかも現実には刻々と原則を破っている、こうした人間の無残にも引き裂かれたあり方を描き続けました。ウソというのは理性(言葉)とともに入ってくるものですが、神をはじめとして人間より高級な理性的存在者なら、ウソをつかないでしょう。理性的ではない動物なら、ウソをつくことすらできないでしょう。しかし、理性的であって、かつ動物である人間はウソをつくべきではないという原則を振り捨てることもできないままにウソをつき続けるのです。
カントは、人間が陥っているこういう事態を「根本悪」という名の「原罪」とみなしました。神がいるとしたら、これは神が人間に課した「原罪」だから、逃れられないわけですね。しかし、キリスト教色を脱色して見直せば、これは、まさにすべての人が言葉を学ぶ瞬間に体内に入れてしまった根源的な掟(おきて)とみなせるでしょう。
このテーマは、次回以降もしばらく続けます。余談として、最後にちょっと。
眞子さま婚約のニュースが列島を駆け巡りましたが、いつもながらその報道の仕方には心底あきれ果てました。テレビのアナウンサーが街に出ていろんな人にこのニュースを伝えてマイクを向けると、「わあ、おめでとうございます!」「よかったですね、お幸せに!」「暗いニュースばかり続いたので、久々に明るいニュースで嬉しいです!」……という賛同的態度のみ。
なかには、絶対的少数派でも、マイクを向けられて、(反感を示さないまでも)「別に関心ありません」とか、「眞子さまって誰でしたっけ?」とか、「そうですか。急ぎますから失礼」という反応もゼロではなかったはずですが、これらを丹念にカットして(?)、なぜか「すべての人」が祝福しているというお話を作り上げてしまう。これって、ウソですよね。
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