というのも、私自身おそるべく似た仕方で被害に遭ったからです。ある組織の契約不備に気づき、それを突いたところ、それを認める事務員やその上司の手紙やメールが多数あるのに、あっという間に、自分たちにはいかなる落ち度もないとして、契約を打ち切られ、その後和解を求めても調停を提案しても、相手は寸分も動かなかった、という苦い体験があるのです。
まあ、私のような雑魚が何を言っても社会問題にはならず、テレビ記者会見のチャンスは与えられず、よって相手も(いまのところ?)安泰なのですが、本当に腹立たしいことです〔詳しくは『真理のための闘争』(河出書房新社)を参照のこと〕。
とはいえ、官僚(組織)が悪い、官邸が悪い、安倍晋三さんが悪い、いや籠池さんや前川さんだって「きれいじゃない」という仕方の追及は、テレビや新聞や週刊誌といったマスメディアが朝から晩まで報じていますから、ほかの人々に任せましょう。
森友・加計学園問題から見えた「ウソそのものの構造」
哲学的に見てたいそう興味があるのは、こうした表層の議論ではなく、「ウソそのものの構造」とでも言ったらいいでしょうか、そのとても不思議なダイナミクスです。
たしかに、われわれは毎日四六時中ウソをつきますが、だからといってそれを100パーセント容認しているわけではない。なぜなら、われわれは、子供たちにも青年たちにも「ウソをつくな」と教えるからであり、それも大真面目で教えるからであり、さらに、われわれは他人から「ウソつき」とか「ウソばかり」と言われると怒るからです。
すなわち、きわめて興味深いことに、ウソに関しては、大原則と現実が相当隔たったまま、われわれは両者をうまく使い分けているのです。だから誰も「場合によってウソは必要」とは言っても、「原則的にウソをつくべきだ」とは言わないし、どの企業も(いかに怪しげな企業でも)、「ウチの会社は原則的にウソをつく」とは言わない。見方を変えれば、われわれは他人のウソによって被害をこうむったときには、その「ウソ」にはひどく敏感であって、激しく追跡する。これは、振り込め詐欺や結婚詐欺から一国の首相のウソまで同じ構造です。
そして、さらに面白いのは、その場合あらゆるマスコミは、権力者のウソに対して、自分はウソをつくことはまったくないという態度を恥ずかしげもなく前面に押し出して追及する。これは、権力者のウソは、その被害が甚大になるからであって、職務に由来する義務の意識がそうさせているのでしょう。
というわけで、森友学園問題や加計学園問題のみならず、ちょっと前になりますが「戦闘地域」と書いた自衛隊の現地報告書を防衛相が(多分)もみ消した問題、それに強行採決はしないと言いながら、飽きもせず堂々とそれを繰り返すウソなど、ウソ、ウソ、ウソが日本中にこだましています。そして、このことにうんざりしている一般国民も、やはり日々自他に対して刻々些細(ささい)なウソをついて暮らし、自分も他人も(広い意味で)騙(だま)している。サルトルによれば、これこそ「自己欺瞞」という人間存在の基本的あり方です。
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