「大磯町」は神奈川観光の第4の核になれるか 旧吉田茂邸の一般公開開始
まずは、旧吉田茂邸とはどのような建築物で、また、どのような歴史的価値のあるものなのかを簡単に整理しよう。
大磯は明治以降、伊藤博文、山縣有朋、大隈重信をはじめとする元老や、三井、三菱、安田といった財閥など、政財界の大物がこぞって邸宅を構え、別荘地・保養地として知られた土地柄だ。
現在の旧吉田茂邸の場所に明治17(1884)年に別荘を建てたのが、吉田茂の養父であり、横浜の豪商だった健三で、大磯町郷土資料館によれば、その後、跡を継いだ吉田茂の手により、計8回程度の増改築が行われたという。
豪壮な総ひのき造り
吉田茂は、昭和19(1944)年頃からこの地に住み始め、昭和20(1945)年には大磯を本邸と定める。そして昭和20年代、首相だった時代に応接間棟を建て、次いで昭和30年代に、近代数寄屋建築で有名な建築家・吉田五十八(よしだいそや 1894~1974年)の設計により、新館の増築と、玄関・食堂の改築を行ったという。
吉田五十八の設計による部分は、京都の宮大工による豪壮な総ひのき造りで、旧吉田茂邸の外観の主要部分を成していた。
首相退任後も、大磯の吉田茂の元を訪れる政財界の要人は絶えることなく、その様子は「大磯詣で」という言葉も生んだ。また、当時、皇太子だった今上天皇と皇太子妃であった美智子様や、西独首相コンラート・アデナウアー氏が邸宅を訪れたこともある。
昭和42(1967)年に吉田茂が亡くなった後も、当時の大平首相とカーター米大統領の日米首脳会談が昭和54(1979)年に実施されるなど、旧吉田茂邸は戦後政治の表舞台・裏舞台として、つねにスポットライトに当たり続けた場所なのだ。
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旧吉田茂邸は前述したように博物館という位置づけでの公開となるが、これについて大磯町郷土資料館の國見徹館長は、「(焼失当時の姿を)再現した建物自体が博物館としての展示資料。吉田茂が生活した空間を体験してほしい」と話す。
今回の再建工事では、焼失前の旧吉田茂邸を可能なかぎり再現することを目的として工事が進められ、建材には天然素材を多く用いたため、品質規格では表現できない色調・風合いなどを目で実際に確認しながら材料を選定した。また、焼失前の仕様を再現するため、当時の写真と見比べながら作業を行うなどしたという。
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