高度成長期の幻を売る「謎の屋台女子」の正体 リーマン直後に就職し、「純喫茶」に救われた

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円頓寺は、菅沼さんが引っ越した頃はまだ、ただの寂れた商店街だったが、建築家とスタイリストの夫婦が、バルとギャラリーを造っていた。その後それをきっかけとして空き店舗と若者のマッチングが行われ、どんどん飲食店が増え、今はとても注目されている街である。なぜか菅沼さんのような感性の鋭い人が偶然住んだ街は、その後栄えるという一種の法則があるようだ。

その頃、勤めていた広告代理店も辞めた。出身大学の助手として働きながら、アーチストとしても活動し、同時に名古屋の繁華街、錦のスナックのホステスとして4年間バイトをした。そこで、客が歌う1960年代、1970年代の歌謡曲を覚えた。奥村チヨ、ヒデとロザンナ、渚ゆう子、山口百恵……。こうして、菅沼さんの現在の原型ができる。

占い師から「屋台が集まれば、街が面白くなる」と言われ

広告代理店の正社員から、アーチストへの転身。作品制作のためには広い空間が欲しい。地方への移住も考えた。「それでどうしたらいいかと思って、占い師さんに占ってもらったんです。年配の男性。そうしたら、彼は簡単そうに言うんです。屋台をやれと。屋台なら、場所は取らないし、自分の作品を見せられる。そういう屋台がたくさん集まれば街が面白くなるだろ、と」。

そのときは、さすがに「えーっ!?」と思った。しかし言われるがままに「アーツ・チャレンジ2013」の企画コンペに応募し、屋台を作った。

屋台を作って、幻を売るというアート活動を始めた。菅沼朋香「ニューロマン 都会編」より一部を抜粋

入選して賞金をもらった。そして国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2013」に有名な建築評論家によって招待されて作品を展示した。アーチストとしての地歩が少しできてきた。

しかし、しょせんアーチストは貧乏だ。「できるだけ家賃ゼロで暮らしたかったんです」。

2015年、東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻に入学。キャンパスは茨城県取手市。部屋は日暮里に借りた。大学院では、いわゆる美術ではない高度成長期の文化が、なぜ美術でもありうるかを理論的に研究した。

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