乙武:いえ、ごめんなさい。話の腰を折っちゃった、すみません。
河崎:いえいえ、全然そんなことないです。やっぱり、もともとお持ちのそのユーモアに助けられてきた部分があったと思うんです。さっき、「自分の参考とするベンチマークやロールモデルがなかったよ」というお話がありましたね。このロールモデルという言葉は曲者(くせもの)で、最近ロールモデルがないから女性管理職を引き受けたくないとかね、「女性が、職場でロールモデルがないというのを言い訳にする」と批判されたりするんです。
ロールモデルがない中での不安感と18年戦ってこられたというお話、いろんな立場の人に響くのではないかと思います。それこそ先ほどの「どう生きたら、どう発信すればいいのかわからず、孤独だった」なかで、何か1つ自分に言い聞かせていたことなどありますか?
「私すらいない」というよりはマシだと思っている
乙武:「楽なほうに流れない」。さっきの話にちょっと戻っちゃうんですけど、メディアに登場する障害者が私しか現れてこないもどかしさみたいなものは常々感じていたので、「だったら、自分が請け負うしかないよね」という覚悟にも似た思いはありました。私がそういうところから逃げて、そのポジションが空席のままというのは、やっぱり社会にとっては、あまりいい状態だとは思わないんですよね。もちろん理想は、そうした人材がいっぱいいること。私しかいないというのは、そんなに好ましい状態ではない。でも、「私すらいない」というよりはマシだと思っているんです。
それで言うと、1人しかいないと矢面に立つし、誰も盾になってくれる人がいないので、その矢を真正面から浴びることになるのでしんどいんですけど、だからといって、そこから逃げるのもまた違うなと。だから、楽なほうに逃げず、俯瞰的に見て、「それはやっぱり乙武洋匡がやるべきだ」と思ったら、やる。そのとき自分が快適か快適じゃないか、自分が心地いいか否かということは関係ない。それだけは意識してきましたね。まあ、そんなカッコつけたこと言っておきながら、プライベートでは実に楽なほうに流れてしまったので、何の説得力もないんですけど……。
河崎:「乙武洋匡がやるべきだ」という、宿命みたいなものをお持ちなのですね……。たとえば欧州では仮に政治家にスキャンダルが出たとしても、日本のように即、政治生命が絶たれるような流れにはなりにくいですよね。市民も「彼のプライベートでの人格と、政治家としての能力は別だ」と、割とおうように構えています。日本は狭量、敏感すぎるんでしょうか。
乙武:フランスやイタリアのように社会的活動とプライベートが切り離されて判断されるような社会なら、そもそも私は政治家など目指さなかったかもしれませんね。
中川:重い言葉ですね。今日のお話を聞いていて、乙武さんは社会の規範よりも個人対個人、周りの人と自分との関係性の部分を重視するという話が多かったと思うんです。前半などは特に。ポリコレの話も、「それぞれの意見があっていい」と、これも個人の話ですよね。今の話はむしろ、社会を俯瞰していますけれど。
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