「旧来型マスメディア」の立場はかなり危うい 財政的にも環境的にも八方ふさがり

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──「熱い」ジャーナリズム論とは違う?

「熱い」ジャーナリズム論は、社会の中からメディアやジャーナリズムを取り出して考察するだけに、世論へのジャーナリズムの影響力を問題にしたがる。従来のメディア論、ジャーナリズム論は、メディアやジャーナリズムがよくなれば社会が変わるという発想をする。

──「冷めた」場合は?

社会の中にメディア、ジャーナリズムを置く。「ジャーナリズムは反政府だけども反体制ではない」という言い方をよくするが、その体制の中で一応今の権力リソースを持っている人に対しては批判するとはいえ、その体制の中にジャーナリズムも収まっている部分がある。社会の中の価値をかなり織り込みながら、時には突出させながら活動している。少し強い言い方をすれば、一般市民とメディア、ジャーナリズムは「共犯関係」にある。どちらが悪いというのではなくて、一般市民の期待に応えようと思ってジャーナリズムはメッセージを送る。

それは単なる商業主義の話ではなくて、世間における価値観の分布と幅の問題だ。経済が右肩上がりで政治意識が横溢(おういつ)していた頃は、おそらくその幅が広くてよかった。今は冷戦が終了し、社会に変に落ち着きが出てきて、それだけ揺れ幅が小さい。そうなると臆病なほどにジャーナリズムの幅も狭くなってくる。狭くなった幅を、一般市民も社会はこんなものと思うようになった。その状況をまたジャーナリズムが反映するという循環が起こっている。社会の中のジャーナリズム、「冷めた」ジャーナリズム論での認識だ。

メディアは「前門の虎、後門の狼」だ

──過渡的な現象ですか。

批判する/批判されるジャーナリズム
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今、メディアは新聞も雑誌もテレビも「前門の虎、後門の狼」の感じだ。自社の財政的な問題、他方でネットという新興メディアの問題がある。両方が関連する中で挟み撃ちに遭っている。そしてネットの住人や発言者が一般の人の考え方を代表しているのだという構図が作られつつある。それがトランプ発言であり、ブレグジットの現象だと解説される。これが過渡的な現象で、マスメディア型のジャーナリズムは信頼を取り戻せるのか。紙媒体が残るかどうかは別にして、信頼を取り戻せる時代になっていないと問題の根は深い。

──人材不足もいわれます。

既存のジャーナリズムの人たちも匿名ではなくどんどん実名をさらしたほうがいい。自分の言葉でいろいろな形でメッセージを発することが重要になってきている。いい意味での無駄な部分がジャーナリズムから欠落しつつある。個性はリスクと隣り合わせのところがある。危なさはあるが面白いやつだから採ってみるか、というような余裕が今やない。

最近の大学生と接していると、ジャーナリスト予備軍としては心もとないと感じる。その意味ではニュース検定のようなからめ手を含めて、人材づくりを進めてほしい。新聞は逆にテレビ局やIT企業にぶら下がってもいい。コングロマリット化して。そのぐらいのことをしないと、ジャーナリズムの立ち位置は本当に危うくなってくる。

塚田 紀史 東洋経済 記者

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つかだ のりふみ / Norifumi Tsukada

電気機器、金属製品などの業界を担当

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