(第12回)阿久悠の履歴書3--3年間で1000本の映画漬け高校生活
●「きみの文章は横光利一を思わせる」
小学校6年の時に、担任教師から、「きみの文章は横光利一を思わせる」とその作文を絶賛された阿久悠は、高校時代には、「この学校で一番文章がうまいらしい」と自覚、大学(明治大学文学部)でも、仲間内で「負けるわけないよな」と自負していたらしい(「創作で一番大事なのは工夫」、『阿久悠のいた時代』所収)。
このプロになる以前の、「予選無敗」の誇りには、純文学の世界に自閉的に凝り固まった、田舎の文学青年の傲慢さとは無縁な、ある清々しさがある。
後にきわめて多作な小説家にもなる阿久悠には、不毛な純文学コンプレックスが一切ない。
中学時代に肺結核で長期休校した彼は、ひきこもり系の純文学青年にはならずに、鬱積したそのエネルギーのはけ口を、映画館通いのほうに指し向けたのである。
物書き志望のこの淡路島の巡査の息子は、内的世界に自閉せず常に目を外に向けていた。
映画館という暗闇の異世界が、強力に彼を東京へと誘っていた。抽象的な観念世界ではなく、具体的な島の外への脱出願望である。
70年代以降の歌謡曲を、詞の力によって、トータルカルチャーにまで引き上げた阿久悠は、その雌伏期間を次のように振り返っている。
「ぼくは淡路島で一生をおくる気持ちは子どもの時からなかったし、父も母も、淡路島には友人はいても、お前の住む場所は無いと言いつづけていたから、ぼくは最初から出て行くつもりでいた。それは実に自然の成り行きで、別に気張ったことではない。(中略)住み場所が無いと言うのだから、常日頃水平線の彼方を見ていることは当然の行為で、ぼくにとっての水平線の向うは、とりあえず「東京」であった」(『生きっぱなしの記』)
奇妙なことに彼の眼中には、大阪も京都もなかった。
さらに奇怪なことに、この青年は、関西弁で思考を組み立てることが苦手で、「東京の言葉でものを考えることが好き」だったというのだから驚く。
そして何かに急かされるように、より東京を知るために、彼は映画館にせっせと足を運んだのだ。高校の授業をさぼりにさぼって。