(第12回)阿久悠の履歴書3--3年間で1000本の映画漬け高校生活
●作詞家の資質を養った「民主主義の三色旗」
小学校時代に体験した「戦争」と、中学校時代に体験した「病気」が深田公之少年、後の阿久悠を、現実の向こう側にあるもうひとつの「現実」へと向かわせた。
だが、それらの条件が整えば、誰もが作家や作詞家になれる、というわけでは無論ない。
ただし、阿久悠という作詞家の資質を養い、その想像力を刺激した野球、映画、流行歌という「民主主義の三色旗」は、彼にとって、日常の延長にある特別な楽しみという以上の、非日常的世界、非現実的世界への扉だった。
そこがまず、ユニークである。
流行歌は、抑圧されていたものの解放の象徴であり、野球は民主主義をスポーツで体現するスリリングな新世界であり、映画もまた軍国主義の悪魔払いにも似た、魔法のひとつだった。
それらが非日常、非現実へと彼を誘う根本的な動機はどこにあったのか。
「ぼくは、心にも体にも取りついた気怠さと闘いながらも、絶望はしていなかった。ただ、生意気なようだが日常は捨てていた。淡路島の洲本高校も、もしかしたら深田家も、およそ現実と呼べるものの中に、ぼくの求めるものは無いと思っていた。目に触れるもの、耳に入るもので、夢中になれそうなものは何もなく、とにかく、非現実を探すことだけに熱心になり、その最も便利な次元移行のマシーンが、映画館という箱であった」(『生きっぱなしの記』)
この時点で、彼の将来の選択肢に、作詞家というオプションはまだない。
音楽的才能に秀でていたわけでもなかったので、流行歌が将来の仕事に結びつくことなど考えてもいなかった。
野球にしてもそうだ。彼は中学、高校と野球部に所属していたわけではなかったし、それらは夢の扉にすぎなかった。
だが映画には、それとは少し違った意味があった。
●作詞の基本は、映画から学んだ
映画俳優や、映画監督を目指したというのではないが、作詞家・阿久悠の歌作りの基本は、その実践的なテクニックを除き、多くを映画の世界から学んだと思って間違いない。
少年期から文才とともに絵心のあった彼は、就職した広告代理店(宣弘社)で、とりあえずその才能を企画に活かす。作詞家として大成した理由のひとつも、鮮明なイメージを詞に定着させる異能によってだった。
画と言葉の総合芸術である映画からの刺激である。
あるいは、映画的な虚構世界、その物語構造を、圧縮して歌謡詞の世界に導き入れようとしたのが、阿久悠という作詞家だったのだ。
歌謡曲とは、詰まるところその時代の「飢餓と憧憬」の発見に尽きるという彼の言葉が、優れて映画的発想なのである。
「二四行ぐらいの詞で、映画とか小説に匹敵するボリュームをつけたい」という歌謡詞への夢と欲望(『書き下ろし歌謡曲』)も、阿久悠ならではのものであろう。
同時に彼は創作のエネルギーを、歌謡詞の市場化可能性へ向けて傾注するプロ意識の持ち主だった。
映像にならない脚本が無意味なように、曲にならないような「散文詩」を書くのは、作詞家失格と公言してはばからなかった彼は、絶えず映画という巨大産業を意識していた。
音楽もまた大衆娯楽をめぐるビッグビジネスに違いない。
そして、映像と言葉、メロディと詞は相似関係にあることを、映画マニアの彼は強く意識していた。
そして何より、現実世界の薄められた再現ではなく、非現実の虚構世界のリアリティこそが、歌謡詞の生命であることを、彼は小説や戯曲ではなく、映画から学んだのである。