(第11回)阿久悠の履歴書2--亡き兄と美空ひばりの登場
●12歳の天才歌手・美空ひばりの登場
阿久悠が鋭く見抜いたように、12歳で天才少女歌手の名を欲しいままにしたひばりが、デビュー当時に歌い、演じていたのは、ことごとく「みなし児」のキャラクターであった。
美空ひばりという国民歌手の最大の特徴は、幼くして、この戦争で投げ出された昭和の子たちの救世主という役割を、堂々と引き受けたことにあった。
実際に戦争孤児であったかどうかは別に、敗戦後の無数の子どもたちが、「みなし児」同然に"自力更正"の道を歩まねばならなかったことに変わりはない。
だからこそ、そのシンボルとして頂点に登りつめた美空ひばりは、この世代の希望の星であり、永遠のスーパースターだったのだ。
「ぼくは、美空ひばりは、天才少女歌手といった生やさしい存在ではない、と思っている。ファンタジーである。敗戦の焦土が誕生させた突然変異の生命体で、しかも、人を救う使命を帯びていた、ということである」(『愛すべき名歌たち-私的歌謡曲史-』)
中学時代に、海で溺れかけた阿久悠・深田少年は、「少年水死」の4文字がふと脳裏をよぎり、これが美空ひばりなら、新聞はどれほどの文字を費やして追悼するだろうと考えたという。
以後、阿久悠の美空ひばりコンプレックスは解消されることがなかった。
たまたまパーティなどで顔を合わせることがあっても、固まったまま殆ど会話らしい会話もできなかったらしい。
それだけに、彼自身のための「作詞家憲法」の第1条に、「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか」と、プロとしての覚悟のほどを書き記した阿久悠のこだわりには、想像以上のものがあった。
それはファンタジーのように、「敗戦の焦土が誕生させた突然変異の生命体」への、最大のオマージュであり、かつ彼なりの宣戦布告でもあったのだ。並みの人間なら、いつかは美空ひばりに歌ってもらえるような詞を書こうと、秘かに誓いを立てるところである。
ところが彼は違った。
それは美空ひばりだけではなく、同業の先行者に対しても同様で、最大のライバル、なかにし礼に対しても阿久悠は決して後追い的な仕事はしなかったのだ。
絶対にナンバーワンに追随しないこと--
これが阿久悠流の、ナンバーワンにしてオンリーワンに至る独自の道だった。
●阿久悠の内面に潜む“熱く激しいマグマ”
さて、「民主主義の三色旗」を手に、男女共学の小学校を終えた深田少年は、中学2年の3学期に結核を患った。
成長期に栄養失調が重なったことが響いたらしい。
中3の1学期を全休、高校受験を控えて2学期から恐る恐る登校するのだが、その際、医者から課せられた条件が、決して激しないことだった。
この一言が、その後の彼の人生を大きく変えることになる。
彼は激情をエネルギーにするロマン主義者ではなく、その抑制を抒情(じょじょう)の糧とした作詞家だったのだ。
「激情を抱かずに生きることが、どれほどつまらないことか、十四歳の少年でもわかる。しかし、その思いをあるがままに発していると、胸が破れて死ぬとも言われる。(中略)だとすると、胸を破らずに激情で生きる方法はないものかと考える。何かある筈である。ないとするなら、それこそ、死んだほうがいい」(『生きっぱなしの記』)
その面構えからも容易に察しられるように、阿久悠という人間の内面には、熱く激しいマグマのような情念の地層が潜んでいたことは間違いない。
だが彼の詞は、そうした激情の奔流(ほんりゅう)に引きずられてはいない。
むしろそれを押しとどめる、抑止力が随所で働いているのだ。
それが阿久悠の歌謡詞の普遍性であり、市場性を保証する核心だったとも言える。