(第11回)阿久悠の履歴書2--亡き兄と美空ひばりの登場

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(第11回)阿久悠の履歴書2--亡き兄と美空ひばりの登場

 

高澤秀次

 

●亡き兄が遺したレコード『湖畔の宿』

 阿久悠の兄・深田隆は大正15(1925)年生まれ、ちょうど一回り年上の兄になる。

 この歳の離れた長兄は、高等小学校を卒業してから就職もせずぶらぶらしていたが、17歳で海軍の志願兵となり、終戦の1ヶ月前、19歳で戦死している。外地ではなく、豊後水道で敵艦載機に遭遇、被弾したのである。

 その兄が入隊間際に、神戸に出て手に入れてきたのが、高峰三枝子のレコード『湖畔の宿』だった。
 日米開戦の前年、日独伊三国同盟が締結され、大政翼賛会の結成で政党政治に終止符を打った、昭和15年のヒット曲である。

 「兄がいなくなってから、時々そのレコードを聴いていましたが、戦局が悪化すると、駐在所からそんな歌が流れちゃいけない、ということで禁じられた。聴きたいときは、押入れに隠れて聴くしかない。戦後は、窓を開けてレコードをかけてもよくなったんです」(『時代の証言者11「ヒットメーカー」阿久悠』)

 阿久悠が敗戦後に「平和」を意識し、「自由」を実感したのは、政治的スローガンでも何でもなく、この窓を開け放して流行歌のレコードが聴けると思った時の解放感だったと語っている。

 『湖畔の宿』のほか、この時期ラジオで聴いた流行歌について彼は、戦時下に歌うことを禁じられていた「不良の唄」だったとも語る。
 『妻恋道中』、『旅笠道中』、『旅姿三人男』、『勘太郎月夜唄』、『裏町人生』といった曲目である。
 いずれも堅気の人生から外れた、はぐれ者たちの旅の道中、浮き世の裏街道を歌ったものだ。時局にそぐわないと、封じ込められていたそれらの不良ソングが、敗戦とともにいっせいに解禁になったのである。

 野球と映画の向こうには、戦勝国のアメリカの巨大な影があった。
 だが、「民主主義の三色旗」のもう一色をなす歌謡曲は純日本産だ。

 戦時期の小国民が、戦後に"民主主義の子"になるのに、国産の歌謡曲という解放の扉があったことの意味は大きい。

 「これらがあったから、ぼくらは時代の迷い子にならずに済んだ」(『生きっぱなしの記』)と語る、この新生"民主主義の子"たちの同世代から、やがてスーパースターが出現することになる。

 阿久悠と同年生まれの美空ひばりという少女歌手である。

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