誘拐犯人がクロロフォルムをしみ込ませたハンカチで令嬢の口を押えると、数秒で令嬢はクタッと失神する。犯人は意識のない令嬢を車のトランクに積んで出発、アジトの山荘についてしばらくすると、令嬢は「ここはどこ……?」と目を覚ます。
刑事ドラマでしばしば放映されるシーンだが、現実には一般人がこのように麻酔薬を用いて誘拐することは不可能である。多くの麻酔薬は劇薬であり、「眠らせる濃度」と「死に至る濃度」が非常に近い。シロートが麻酔薬を令嬢にかがせても、令嬢は「ちょっと臭いわ」と顔をしかめるだけに終わるか、マイケル・ジャクソンの主治医だった内科医のように、クスリの加減を見誤って令嬢を死に至らしめるか、のどちらかである。
マイケル・ジャクソンが最後に使用したクスリは、プロポフォールという麻酔薬であり、私は毎日のようにこの薬品を使用している。私の職業は麻酔科医、手術に際して患者を就眠させ、終了後には痛みなく覚醒させるのが私の仕事である(もっと詳しく麻酔科医という職業が知りたい方は、こちらがお勧め。kindle版もある)
麻酔科医という仕事は、医者の専門としては地味で、外科医の下請け呼ばわりされることも多く、医者ドラマでも決して主人公にはならない。同時に、直接に患者の主治医にはならないロジスティクス的業務なので、通訳や清掃業務のようにアウトソーシングは容易である。よって、近年の医師不足や医療崩壊を背景に、テレビ朝日のドラマ「ドクターX」のように「手術1件当たり○○円」といった出来高制の契約で報酬を得て、病院を渡り歩くフリーランス医師が増加中であり、私もそのひとりである。
フリーランスに転身して5年が経った。「なぜ大学病院を辞めてフリーランス医師になったのか」「なぜフリーランス医師は増えているのか」と、私は何度も質問された。報酬アップは動機のひとつだが、それ以上に日本の大学医局を覆っている閉塞感から逃れたかった。そして「この閉塞感の原因は、単に医療界にとどまらず、日本社会全体を覆う閉塞感と同根ではないか」との思いに至り、この文章を書いている。
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