<パンプキンからのコメント>
わが家の子離れの場合
わが家の末っ子は高校2年のとき、私にとっては突如、「アメリカの高校へ留学したい」と言い出しました。仕事が忙しかった時期で、ほとんど精神的には子供を構ってやれていないときだったので、晴天の霹靂でした。
彼は中高一貫の進学校に通っていましたし、上3人も皆、自宅通学でしたので、巣立ちも上から順番だと思っていた節があります。私自身は「末っ子と離れて住む」という心の準備はできておらず、猛反対しました。私の心の準備という面もありましたが、まず高額の留学費用は? 洗濯もしたことのない子が? どれひとつとっても時期尚早に思えました。
少なくとも日本の大学で席を確保してから、という固定観念に縛られていたのも事実です。また(息子には申し訳なかったことですが)、留学はしたものの勉強についていけず、遊び仲間だけを作って帰ってきた子たちの一人ひとりの顔まで頭に浮かびました。
彼は中学受験では、上3人をみて当然、勉強するものだという環境があり、兄ほど机に向かうのに抵抗があった子ではありません。が、放っておいて積極的に勉強するほうでもありませんでした。今、振り返っても不思議なのですが、その彼が塾にも通わず独学で英語を猛勉強していて、TOEFLも受け、今通っている学校でかかっている費用の範囲内で生活するから、と決意も固い。留学手続きもいっさい自分がするからと譲りません。
単に「まだ子離れの準備ができてない」だけでは反対する理由にならないほどの脇の固さに、渋々応じるしかありませんでした。私は「やってみなさい」と一言そっけなく言いました。それまでも息子は決して強引に「留学したい」というのではなく、「したいのだけれど」と遠慮がちで、“譲らない“といっても、下手に静かに“お願いする”という態度でした。ボソボソお願いする彼とブツブツ話す私の会話が数日続いた後、無愛想な私の「じゃ、やってみなさい」の言葉に、パッと輝いた彼の笑顔が忘れられません。
京都駅で息子が乗った“はるか”が見えなくなった瞬間、大声で涙をぼろぼろ流して泣きました。しばらくは息子の部屋をみても、スーパーへ行っても、仕事をしていても、突然に涙があふれて困ったものでした。
高校か大学卒業後に京都に帰ってきたとき、それまでしてあげられなかった普通の優しいお母さんをやって、償いができることを支えとしましたが、息子はそのまま大学、大学院とアメリカで過ごして社会人となり、実家で一緒に暮らすことはありませんでした。止まらなかった涙はその予感だったようです。
当時は、インターネットや携帯電話が普及していない時代でしたので、ホームスティ先への手短な電話や手紙が、主な連絡手段でした。送金も今よりは随分手数料がかかった時代の話です。経済的には潤沢な支援をしたわけではなく、苦労したと思いますが、愚痴など聞いたことはありません。猛勉強したようで、飛び級で卒業しました。彼の友人から聞いた話ですが、よく深夜にも学校の図書館で勉強していたといいます。個人個人、最大に力を発揮するのが中学受験か大学受験か、またはそれ以外のときかは、違うようです。
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