豊臣秀吉は「ズバ抜けて出世する人」の典型だ 「人たらし」だけじゃない!5つの秘密とは?
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
秀吉が「信長の後継者」になれた理由
Q1. 戦国時代、「大出世を遂げた人物」の例を挙げてください
冒頭の北条早雲、斎藤道三のほか、「珍しい出自の戦国大名」は数多くいます。
たとえば、豊臣秀吉の子飼いの武将として知られる加藤清正の生家は「刀鍛冶」で、福島正則は「桶屋」の出身とも言われています。また、関ヶ原の戦いなどでも知られる小西行長の生家は「堺の商人」、安国寺恵瓊(えけい)は臨済宗の「僧侶」でした。
ただ、いずれも彼らの最終的な地位は「大名」であり、秀吉のように「天下人」として頂点を極めた例は、ほかにありません。
Q2. 豊臣秀吉はどんな人物ですか?
1537年、尾張国(愛知県)中村郷の下級武士(農民とも)、木下弥右衛門の子として生まれ、放浪生活等を経て織田家に仕えました。
最初は、織田信長の単なる雑用係でしたが、早くから才能を発揮し、1582年に信長が「本能寺の変」に倒れると、その「実質的な後継者」として天下統一を完遂する中、関白として豊臣政権を樹立します。
さらに、秀吉は明国征服をもくろみますが、その途中の1598年、62歳で死去しました。
Q3. 信長の死後、なぜ秀吉が「後継者」になれたのですか?
「信長の仇を討った当人だった」ことももちろんですが、「本能寺の変」の時点で、織田家「重臣」の地位にあったことが大きいと思います。
ただし、このとき彼と同様に重臣だった武将は、ほかにもいました。なかでも最も強力なライバルは柴田勝家でした。
柴田勝家は古くから織田家に仕える有力家臣で、実績も十分あるほか、妻が信長の妹でもあったため、本来なら勝家が新たなリーダー役として最有力候補だったのです。
しかし、「同じ重臣の立場」にあった秀吉は、巧みな「人たらし」により家中の主導権を握り、信長の実質的後継者となりました。
Q4. では、「人たらし」が大出世のすべての要因ですか?
いいえ。それはあくまで要素のひとつにすぎません。
さらに言うなら、豊臣秀吉が「半農の下級武士」から「天下人」まで、たぐいまれなる大出世を遂げるためには、ほかにいくつもの要因が不可欠でした。それこそが、彼の奇跡的な出世を実現した「本当の秘密」と言えるでしょう。
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