大坂の陣、豊臣方「真の敗因」は何だったのか 「埋められた堀」より致命的だった弱点は?
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
豊臣家が滅亡した「大坂の陣」とは?
Q1. そもそも「大坂の陣」とはどんな戦いですか?
江戸時代初期、大坂城で行われた2つの戦いの総称です。それぞれを「大坂冬の陣(1614年11〜12月)」「大坂夏の陣(1615年4〜5月)」と呼んでいます。
「関ヶ原の戦い」に勝利し、江戸に幕府を開いた徳川家康が「天下統一最後の総仕上げ」として、幕府にとって最も脅威だった豊臣家をこの戦いで攻め滅ぼしました。ちなみに、「大阪」は明治までは「大坂」と表記されます。
Q2.「大坂の陣」はなぜ起きたのですか?
「豊臣秀頼が徳川家康への臣従を断固拒否した」からです。
徳川家康は当初、孫娘の千姫(せんひめ)を豊臣秀頼に嫁がせるなど「融和的に」豊臣家を幕府の傘下に組み込もうと考えていました。
しかし、豊臣家では、豊臣秀頼の母「淀殿」やそれを支持する反徳川の強硬派が実権を握り、あくまで幕府への臣従を拒否しつづけました。そのため、徳川家康が「強硬手段」に出て、大坂の陣に発展したとされています。
Q3. 戦いの発端は「方広寺の鐘銘」と言われていますよね?
そうです。1614年7月、豊臣家が再建した京都の方広寺の鐘の銘文に、「徳川家康を呪った」とする「国家安康」「君臣豊楽」の記述が見つかり、これがもとで「大坂の陣」が勃発したとされています。
しかし、実際のところ、鐘自体はそれ以前の4月に完成が周知されており、「家康の言いがかり」と言われても仕方ありません。
実際、徳川家康は2月頃からイギリスに大砲や火薬の手配を打診するなど、戦いの準備を着々と進めていました。
Q4.諸大名が豊臣秀頼に味方しなかった理由は?
「すでに幕府の世襲制が確立し、徳川の世となっていた」からです。
1600年の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は1603年に将軍になり幕府を開きますが、2年後には将軍職を子の徳川秀忠に譲ってしまいました。これは、大名たちに対して、「これからも徳川の世が続く」ことをアピールするものでもありました。
しかもこのころ、すでに全国の諸大名は江戸幕府の体制下に組み込まれ、徳川に従うことで領地を安堵された形になっていました。新たな主君は徳川家康であり、「豊臣秀頼に従う理由」は何もなかったのです。
Q5. では、「戦いの敗因」は何なのでしょう?
一般的には、「大坂城の“外堀”も“内堀”も埋められたから」といわれています。もちろん、それは間違いではありませんが、こうした状況を招いた「本当の敗因」がほかにあったように思います。
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