東大を3度落ちた男が辿り着いたカフェ経営 映画や穀物栽培など手がける人気店の裏側
相当やさぐれていたんでしょうか(笑)。周りの人が心配してくれて、そこで「辞めるんだったら、ニューヨークへいかないか? 現地で仕事がある」と、またここで大きな節目となる誘いを受けたのです。
次のアテもなかったし、厭世(えんせい)的な気持ちになっていたので、ここでひとつ新しい世界に身を置いてみようと、手を挙げることにしました。当時25、26歳。ワクワクしていました。
――身ひとつ、裸一貫で新天地に。
井川氏:実は当時、お付き合いしていた女性がいたのですが、急なニューヨーク行きが決まりそうだと話をすると、「私も行きたい」となりました。まさか「彼女です」で、一緒にアメリカ行きのビザは取れないので、勢いというか「じゃあ、結婚しようか」となり、無事籍を入れて行きました(笑)。仕事を紹介してくれた方から「お前何考えているんだ、どうやって暮らすんだ」と、呆れられましたね。
「どうやって暮らす」その言葉の意味は、到着後すぐに知ることになりました。定期的な仕事や住む場所も、特に手配などされておらず、ほとんどゼロから仕事を作るしかありませんでした。英語も話せませんでしたが、ここは転校生の得意技(笑)。日本の民放の現地局に、企画を売り込んで番組づくりをしていました。
質の追求なき 「法事弁当式仕事」からの脱却
井川氏:フリーのディレクターとして2年、その後アメリカの同時多発テロが起き、いったん帰国するもまた現地に戻って番組を作っていました。そうして慌ただしく働いているうちに、テレビを取り巻く環境もどんどん変わってきました。
ちょうど民放のBS開局の時期と重なり、これからは番組だけでなく、デジタルコンテンツの時代だと言われ、今までフリーランスでやってきた仕事も会社にしました。
もともとアナウンサーで、しっかりしている奥さんに代表を任せることにしました。会社である以上、登記する上で定款(ていかん)を書かないといけないのですが、やりたいことを盛り込んでいるうちによく分からなくなり、そこで会社名は素敵な偶然、予想外の発見を意味する「セレンディピティ」として「その日暮らしを是としよう。」と、およそ会社らしからぬ形で出発しました。
あやふやな会社でしたが、経営としては及第点というか、うちのデジタルコンテンツは一社独占状態で、正直儲かっていました。ただ、そこに工夫がなかったのも事実でした。特殊な技術でそのクライアントの仕様に併せているので、あくまで納品をする下請けでした。世の中のテレビに対する姿勢が変わりつつあることに気づきつつも、何もアクションを起こせないことに対するモヤモヤとした不満を感じていました。