東大を3度落ちた男が辿り着いたカフェ経営 映画や穀物栽培など手がける人気店の裏側
そこで、また世間知らずぶりを発揮しました。テレビ局に入りたいとエントリーしようとしたら、当たり前ですが「大学卒業見込み」の人しか受け入れてくれなかったんです。ぼくのような大学を中退した人間には、門戸が開かれていない、エントリーすらさせてもらえないという現実を知った時、どこかで誰かから「これが、世間というもんなんだよ」と笑われた気がしました。
――「現実」に直面して、井川さんがとった次の一手は。
井川氏:アルバイト情報誌に載っている「テレビ」と名のつく仕事に、とにかく応募することでした。大学も中退だし、業界は未経験でしたから、「なんでもやります」と言っていました。ようやく入れてもらったのが、美術の制作会社。全国放送ゴールデンタイムの番組で使う小道具の仕事でした。
とりあえず、最初の1ヶ月。28時(朝の4時)に現場が終わって、同日朝7時にまた渋谷で集合。家に帰る間もなくスタジオの端っこで寝るような生活でした。契約書も交していなかったので、それとなく給料のことを話すと、親方は自分のポケットに手を突っ込んで、無造作に掴んだお札を「これ、やるよ」と言って、ぼくにくれました。額は2万8000円。それが初任給でした。
そこで1年間、現場でいい番組づくりも、悪い番組づくりも見て「決められた仕組みの中でいいものなんて作れない」、「仕事は仕組みではなく、ひとりの想いが引っ張って全体を動かすんだ。」と確信しました。
ディレクターを志望していたので、美術の制作の仕事はやめ、募集していたドラマのディレクターの仕事に応募しました。いろいろな事情で話が何度か延期されるうちに、経ち消えに。退路は断っていたので困っていたところ、映画の予告編を作る仕事に誘われました。
当時のぼくは映画は『男はつらいよ』と『E.T』しか見たことがなかったのですが、たくさん映画に触れられるいい機会だと、未経験でしたが、またすぐに手を挙げ、3年ほどやりました。
仕事にも慣れ、順調にこなしていく中で、昔の大学のメンバーや職場の同僚から「映画を撮ろう」という話を持ちかけられました。学生時代に調整役としての監督の大変さを知っていたし、諸手を上げて喜べなかった自分は、当初拒否していたのですが、結局数百万円の予算でやりました。
けれど25歳くらいの、社会に不満のある人間が集まって作った映画のできの悪さを見ていると、両親の言う世の中のルール、王道の素晴らしさがなんとなく分かってきたような気がしたんです。
「(王道を外れた)俺ってバカかもしれない」と。
手を挙げ違う世界に飛び込み続けニューヨークへ
井川氏:『北の国から』にはほど遠い、いつまでも実績にならないような自主制作の映像を撮り続けることに何の意味があるのか。この世界にしがみつく意味がないと、嫌気がさして映画の予告編を作る会社を辞めることにしました。