南京大虐殺と、“日本人”としての娘の戦い

私と両親と娘にとっての「現代史」

これまでこの連載で書いてきたように、私の娘は幼稚園からインターに入ったため、一度も日本の学校に通っていない。インター卒業後は、アメリカ東部メイン州のベイツカレッジに進学し、その後、ジョンズホプキンズ大学のSAIS大学院で学んだ。この間、約2年を南京で過ごしたが、この過程を通して、いっときも、日本人であることを忘れたことはなかった。また、日本語はもとより、日本の歴史、伝統、文化も徹底して学んだ。

幸い、インターには、日本の歴史に造詣が深い教師がいて、丁寧に日本史を教えてくれた。特にサンモールのグレン・スコンギンズ先生は、私よりずっと詳しく、聖徳太子から坂本竜馬まで丁寧に教えてくれた。

私が学校で学んだ歴史は、まさに詰め込み式で、極論すれば、たとえば「いい国つくろう鎌倉幕府」というように、年時とイベントをセットで暗記するだけだった。登場人物について考えることも、なぜその出来事が起こったのかも、二の次だった。

そして、大抵は明治で終わってしまった。3学期はテストが多く、きまって現代までいかないのだ。いっても日米開戦、真珠湾ぐらいで終わっていた。

しかし、娘がハイスクールで学んだ日本史は、エッセイ(日本語訳の「随筆」は間違い。小論文のこと)中心の教育で、歴史についてつねに考えなければならなかった。

こうした日本の歴史教育の反省から、私は、特に、家族の歴史を娘に教えた。家族の歴史こそが、日本の現代史だからだ。小さい頃から私が娘に言ってきたのは、私の父と母が戦争のとき何をしていたかである。

偶然で生き残った父と母

私の父は1944年、19歳で招集され、北支那派遣軍第59師団に配属され、満州で戦った。そして、終戦時、侵攻してきたソ連軍に捕まり、シベリアに輸送されることになった。ところが、発疹チフスにかかり、チチハルで輸送列車から放り出された。

「もしあのとき、発疹チフスにかからなかったら、シベリアへ行って死んでいただろう」と、父はよく言っていた。

また、私の母は1945年5月29日の横浜大空襲のとき、当時、暮らしていた南区通町の家から近所の防空壕に逃げた。このとき、火の手が迫っていたので大岡川に逃げた家族もあったが、機銃掃射でみな死んだという。

「あとから行ってみると、川が真っ赤に染まっていた。だから、あのとき川に逃げたら、私も死んでいたわ」と、よく言っていた。

だから私は、娘にこう言ったのである。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、いま生きているのは偶然だよ。おじいちゃんとおばあちゃんが生きていなければパパも生まれなかったし、お前もいないんだよ」

娘はジョンズホプキンズのSAISを修了した後、アメリカ人の親友と満州の旅に出た。私がいつかは行こうと思っていて行けなかったハルビン、チチハルに行き、満州を一周して帰ってきた。長春では旧満鉄の大和ホテルに泊まり、瀋陽や大連の旧日本軍の史跡を訪ね歩いた。

このとき娘は、私の父が書いた小説を手にしていた。私の父は作家で、満州での体験を『日本工作人』(1958年、現代社刊、第39回、第40回直木賞候補作)という長編小説に書き残している。

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