南京大虐殺と、“日本人”としての娘の戦い 私と両親と娘にとっての「現代史」

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さて、ここから話は、大きく変わる。

2006年、私は初めて南京大虐殺記念館に行った。娘に連れられ、家内といっしょに南京市の中心街、新街口(シンジエコウ)から記念館までタクシーに乗った。タクシーに乗り込む前から、娘は「絶対に日本語を使ってはダメだよ」と私たちに釘を刺した。

中国では2005年に最初の大規模な反日デモが起こっていて、南京は特に反日感情が強かった。その当時、娘はジョンズホプキンズ南京センター(中国名:中美中心、ジョンズホプキンズ大学SAIS大学院が南京大学と提携して開設した中国研究所)に留学していて、すでに何度か記念館に行っていた。

南京に留学した当初、「大学の中はいいけど、街に出たら日本人とわからないようにしないと恐い。からんでくるような人はいないけど、日本人とわかって、白い目で見られたことが何度かある」と言うので心配していた。

しかし、若いからすぐに処世術を身に付けた。「郷に入ったら郷に従え」というのとは違う「現地適応術」である。

中国語ができても、わざと英語を使う「処世術」

ジョンズホプキンズ南京センターは、アメリカからの留学生と地元の中国人学生が半々で、一緒に中国経済、文化、歴史について学ぶ。1987年に設立されており、アメリカの大学のアジアでの提携プラグラムとしては、もっとも古いもののひとつだ。

アジアでの進出先として、最初は日本を考えたというが、日本の大学から断られ、南京大学になったという。南京大学は、中国では、北京大学、清華大学、中国科学技術大学、復旦大学に次ぐ5番手の大学だ。南京は、昔は「金陵」(ジンリン)と呼ばれ、古代から多くの王朝の首都となってきたが、文教都市としての側面も持っている。

娘のルームメイトは南京大学の職員の一人娘で、日本への留学経験があり日本語も話せた。それで、ただ一人の日本人留学生である娘のルームメイトになったのだが、二人はいっさい日本語を使わなかった。学外に出るときは、いつも英語か中国語で話していた。

彼女と中国語で話していれば、娘は中国人に見られることが多い。また、ほかのアメリカ人の学生と英語で話していれば、今度は日系アメリカ人で通せるというわけだ。

「だから問題ないし、心配いらない」というのが、娘の処世術だった。

実は、アメリカ人学生たちも、中国語を話せても、わざと英語を使う「処世術」で暮らしていた。そうすると、街中のどんな店に行ってもいちばん待遇がいい。中国人は特にアメリカ人には弱い。これは、アジア人ならみな持っている抜きがたい白人コンプレックスで、日本人も同じだろう。

ただ、中国の街では、英語が通じないときが多い。そういうときは、彼らは待っていましたとばかり、中国語に切り替える。すると、「えっ!中国語が話せるの」ということで、驚くほど親切にしてくれる。この特典をアメリカ人学生たちは最大限に利用していた。

だから、娘もそれに便乗していたというわけだ。

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