つまり、完璧なのだ。安倍政権の方針にも、広い意味であっている。
それにもかかわらず、候補者とならなかったのはなぜか。
それは安倍政権へのアピールが足りなかったからだ。
彼は、非常にまともな金融緩和論を主張し続けていた。だから、世俗のリフレ論とは一線を画しており、やみくもにインフレを起こせとか、インフレあるいはインフレ期待を起こせばすべて解決する、と言った乱暴な主張には批判的だった。これがいけなかった。安倍政権にはインパクトが足りなかったし、安倍首相にとっては、彼の主張と異なっていると映ったのだろう。そして、自分の主張そのままである学者を選んだ。そういうことであろう。
しかし、これは何かおかしくないか。
専門家以外に、専門家の目利きはできない
ブレーン、あるいは専門家として内閣が政府のスタッフを選ぶとき、今回は、日銀という組織において、政府からは独立しているが、人事においては政府が唯一影響を直接与えることが出来る局面だ。その人選は、政府スタッフとしての専門家、日本経済の舵取りをする最重要なプロフェッショナルを選ぶ、という局面である。このようなときに、政治家と同じ意見であることが人選の条件と言うのは、どういうことか。
金融緩和論者と金融引き締め論者が対立しているときに、前者を選ぶのは、まあいいだろう。しかし、基本的なフィロソフィーを共有できれば、あとは、どの専門家が最も優れているかは、つまり目利きは、専門家に委ねるべきではないか。専門家以外に専門家の目利きは出来ないのだ。
例えば、文部科学省関連の予算で、研究予算の配分がある。そのときに重要なのは、どの研究に予算をつけるか、という判断をする人、つまり目利きを誰にするか、ということである。これはさすがに、研究者が選んでいるのだが、多忙な一流研究者だったり、高名だが高齢だったり、ちょっとした問題があるだけで、目利きとしてのパフォーマンスは落ちてしまい、最適な研究資金配分、とりわけ先駆的な研究の可能性がある、まだそれほど一般には有名でない若手には資金が回らなくなってしまう。
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