日本はなぜ、極右など右派ばかりなのか 島田雅彦×波頭亮 日本の精神文化のゆくえ(上)
息も絶え絶えな保守
波頭:左翼的言説が存在感を失っていると同時に、実は保守の息も絶え絶えになっているように感じています。多くの人は保守と右翼を混同しているようですが、実はまったくの別物で、今目立っている右寄りの人たちは保守勢力ではなく、ラジカルな右翼です。
本来、保守の思想は、「人間や社会はそうそう変わるものではない。昨日の経験と現実のなかで今日の延長に明日がある」というものですが、今出てきている右翼は「根こそぎ変えるべきである」というオール・オア・ナッシングに近いラジカルな主張です。
ラジカルなものをすべて否定するわけではないのですが、この10年、15年の間、日本の思想界、論壇で保守的な言説が息も絶え絶えになっている現実もまた健全なものとは言えません。
島田:おっしゃるとおりで、石原慎太郎氏は自分のことを保守だと思いたがっているようですが、彼ほど保守から遠い人間はいません。
彼が自民党にいた頃を思い返せばより明らかになりますが、当時彼は単なる変わり者の一匹狼で、自民党にはちゃんと保守本流というものがあった。吉田茂から連なる保守本流の流れは、波頭さんの言うようにいつの間にか勢いを失っているように見えます。
保守主義というのは、ある程度の経験値と歴史に対する理解がないと成立しないもので、彼らはその経験と歴史認識に基づいて、革新や極右などの極端な思想に対峙し、「まあ待て」といさめる役どころを担ってきたように思います。
極右や極左は、「後は野となれ山となれ」的な思想で、既得権益をぶち壊せと主張します。その意味で、保守とは決定的に違います。
波頭:米国で比較的ラジカルと言える右と左、共和党と民主党が拮抗しているのは、新大陸においてゼロベースで理念系の対立軸をつくり、そのなかで国の形をつくってきたからです。
一方、ヨーロッパは歴史が長いのでそのなかで保守的、右翼的な思想政策もあれば、左翼的な思想政策もあって、成熟国家になるにつれて中心軸が左のほうに寄っていきました。
でも、それはラジカルな左ではなく、保守的な方法論の下で左寄りの国をつくったと考えてよいでしょう。
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