「ほんとうの素直とは、自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、そういうことやな」
正邪、善悪、表裏の存在を知りながら、なおかつそれにこだわらない。偏らない。たんなる無心でもない。自分が悟ればそれでよしとするものでもない。素直な心になることは、決して易しいことではない。
「自然の理法に従えば、と言うたけどな、それは自然の理法に従っておれば、それだけでただ何もせんでええということではないんや。それは、きみ、わかるやろ」
自然の理法はやるべきこと、なすべきことをやっている。早い話がお日さまはきちんと東から出る。西に沈む。春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る。
人間もやるべきこと、なすべきことをきちんとやれるかどうか。逆になすべからざることは絶対にやらない。そういう振る舞いができるかどうか。自然の理法に従うというのは、決してそう易しいことではない。
「まあ、わしはそういうようなことをみずから考えながら今日までやってきた。宇宙万物自然というものが、わしの先生でもあったわけやな。
わしの経営についての考え方は、経営というひとつの枠のなかだけで考えたのではない。わしはいつもその枠を越えて、宇宙とか自然とかそういうものに考えを及ぼし、そこで得られたわしなりの結論を経営に応用したんや」
天地自然の中に繁栄の原理を探してきた
経営についての松下の考えは、全体の考えの一部であって、決して全体ではない。多くの人が松下を「経営の神様」と呼んだが、ほんとうは松下が考え続けてきたのは宇宙のことであり、万物のことであり、自然のことであり、人間のことであった。松下は経営をやりながら、つねに人間の本質とはなにか、人間の幸せとはなにか、宇宙の本質とはなにか、自然の理法とはないかということを、考え続けてきた。天地自然の中に繁栄の原理を探してきた。これが松下幸之助のやり方だった。
PHP研究所の庭の左奥に、「根源さま」の小さなお社がある。松下は研究所にやってくると、まず最初に、必ず根源の社の前に円座を敷き、座禅をするように足を組んで座り、二~三分間ほど手を合わせていた。
根源さまとは神様でも仏様でもない。松下が勝手につくったものである。そして社のなかにはなにも入っていない。松下の「根源」という考え方が入っているだけである。
「あそこへお客さんを案内すると、必ず、根源さんというのはなんですかと聞かれるな。いちいち説明せんといかんけど、それがあの場所では面倒やな。ハハハ。
どうして根源という考えをわしが持ったかというと、こういうことや。考えてみればわしのような、なんも恵まれておらなかった者が、一応の成功をしたということは不思議やろ。それらしい説明は、聞かれればしてみせるけどな。正直言うと、なぜこうなったのか、ほんとうのところの理由はわしにも、ようわからんのや」
松下はあるとき、これは自分を存在させてくれたものに感謝しなければいけないと考えた。誰が自分を存在させてくれたのか。それは自分を生んでくれた両親である。ならば、両親に感謝しなければいけない。
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