型破りすぎる!伝説の「東大の日本史」問題 解答へのダメ出しがそのまま問題に
学校の授業ではたいてい「藤原氏は摂政・関白として権力を振るった」と教えるが、実は、その権勢から「御堂関白」と称された藤原道長は、関白就任の打診を断わり一度もその座に就いていない。
道長は実は関白に一度も就任していない
というのも、摂政・関白という官職そのものは具体的な権限を伴わない。摂政も関白も、あくまでも天皇の個人的な輔弼者(ほひつしゃ、天皇の権能行使について進言する人)という位置づけだったのである。道長は、名誉職的な地位に追いやられるのを嫌がり、関白職につかなかったというわけだ。
その代わり、太政官制における事実上の最高責任者である左大臣のポストを手放すことはなく、除目(貴族の人事)を最終決定する権限を握り続けた。人事権こそが権力であることは、いつの時代も変わりない。
では、このように道長が権力を握り得たのはなぜか? これはみなさんも習った覚えがあると思うが、道長が4人の娘を嫁がせて皇后とし、天皇との外戚関係を確固たるものとしたからである。
これを裏返せば、実頼・頼忠父子が「朝廷の人々から軽視された事情」もおのずと推理される。実頼・頼忠父子は、娘を皇后としていない、藤原氏では傍系である。それゆえ、(以下、<>内の記述は史料からの引用)<誰も自分には昇進人事について相談に来ない><自分は名前だけの関白にすぎない>と、嘆くしかなかったのである。
その後、藤原道長・頼通父子の時代には、摂関政治は全盛を極めたのは、前述のとおりだ。しかし、11世紀後半の白河上皇の登場によって、摂関政治における権力関係は一変する。 藤原道長の子・頼通の娘には皇子が生まれなかったため、頼通を外祖父としない後三条天皇の即位を許すことになる。摂関政治の権力のよりどころは天皇との外戚関係であったがゆえに、それが切れた時に突然の終焉を迎えたのである。
そして、父・後三条の遺志を継いで親政を目指した白河は、1086年(応徳3)、子の堀河に皇位を譲り、自らは上皇として院政を開始した。そして、従来の太政官符を超える効力をもつとする院宣を発して、律令や先例にとらわれずに専制を行ったのである。
こうした中で、藤原公実が<摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行がある>と訴えたが、聞き入れられることはなかった。白河は、「藤原氏が外戚の立場で官吏の任免権(人事権)を握る摂関政治」から、「上皇が天皇の父として実権を行使する院政」へと、権力関係を書き換えたからである。
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