民主主義を壊す「コスパ第一主義」という病 日本は「奴隷天国」化している
この話をゼミでしたら、たまたまゼミ生にバイトでスイミングクラブのインストラクターをやっている子がいて、「うちも同じです」と言っていました。昔は、「はい、泳げる子たちはこっち。泳げない子はこっちへ行って」みたいなアバウトな分け方で、泳げない子にはビート板を使って練習させたりしていたわけです。ところが今は一口に泳げないと言っても、たいへんに精密な段階にわけられている。「顔を水につけられた」「耳まで水につけられた」「頭全部が水の中に入った」「足を離した」……などなど、泳ぎ始めるに至るまでにいくつもの細かい検査項目があって、それを個人のカードに記してゆく。「スイミングスクールで30分間レッスンしたことで、この子はこれだけ能力が向上しました」と目に見えるかたちで、外形的に示してあげないと、親が納得しないらしい。これってまさに「コスパという病」ですよね。
白井:「60分のワンレッスンに1万円払っている。それなら1万円分の成果が出なければおかしい」という感覚ですね。そのために異常に細かいチェック表を作って、その場その場で価値の交換がきちんと等価で行われているかをチェックしている。今日ではそのチェックがどんどん厳しくなっていき、ちゃんと価値が確認できないような商品は「コストパフォーマンス的に論外」ということになってしまう。
「等価交換でなければ」という観念に取りつかれている
内田:これまで「カネの話じゃない」領域にまで市場原理が入ってきましたね。教育もそうです。合気道やスイミングスクールと同じです。これだけの授業料を払った、これだけの学習努力をした。だったら、その見返りに学校は何をくれるのか。それを客観的なかたちで明示せよ、というようなことを学生や保護者が言い出すようになってきた。そして、みんな「コスパという病」に罹患しているから、できるだけ少ない負担で、できるだけ少ない学習努力で、教育「商品」を手に入れようとする。60点取ればある教科で2単位得られる。だったら、その教科で70点や80点を取るのはまったく無駄だということになる。授業をさぼれるだけさぼって、試験やレポートではぎりぎり60点を狙ってくる学生は、「同じ商品だったら、1円でも安いところで買うのが当たり前でしょ!」と信じているその親と同じ価値観に律されているわけです。
最悪なのはシラバスですね。あれは完全に商取引の発想です。履修する前に、「この授業を半期15週受けるとこんな教育効果が上がります。何月何日にはこんな内容の授業をして、それを受けるとこんな知識や技能が身につきます。何月何日には……」ということを詳細に書かないといけない。そうしろと、文科省からうるさく命令されている。でも、これは完全に商品の仕様書そのものでしょう。「教育は商品じゃない」ということをいくら僕が声を大にして言っても、世の中の仕組みは少しも変わらない。