競争に勝てる人材は競争によってしか育たない
美しい思い出で満たされた家庭と比べ、小学校にはあまり良い思い出はなかった。
普通の公立小学校に通っていたのだが、僕は勉強に自信があり、先生が何か質問をすればいつも一番に手を挙げて答えていた。それを評価してくれる先生ももちろんいたが、大抵は疎まれた。僕は出る杭だった。ある時、担任の先生に呼び出され、こう叱られた。
「小野君は授業中に手を挙げないでくれ。他の子が答えられなくなってしまうから」
頑張ったのに怒られた。この時の空しさの感情が僕の記憶に強烈に残っている。幸運にも僕はそんなことでへこたれる子ではなかった。だが、こうした悪平等で潰されていく才能の芽が日本にどれほどあるのかと思うと、悲しくなる。
僕は小学校よりも進学塾に居場所を見出した。そこでは勉強が出来ると素直に先生に褒められ、友達から尊敬された。「優等生」であることを隠す必要がなかった。だから塾での勉強は素直に楽しく、頑張り、点が上がり、褒められ、そして余計に勉強が楽しくなった。
一方、塾に通い出すと、小学校の当時の担任教師は僕をさらに目の敵にした。勉強とは全く関係ない、忘れ物や行儀のことなどで叱られた時に、よく嫌味を言われた。「小野君は難しい塾に通っているクセにこんなこともできないのか」と。
そんな幼稚な嫌味は別として、小学生を毎晩9時まで塾に缶詰めにするのは異常だという批判はもっともだと思う。試験の点数のみに基づいた競争を強いられることで勉強を嫌いになってしまった子も多かろう。だが、競争によって伸びる子もいる。競争に勝てる人材は競争によってしか育たないとも思う。
教育において、悪者は競争ではない。競争の基準が画一的であることだ。スポーツが得意な子はスポーツで競争させて伸ばせばいい。音楽が得意な子は音楽で、絵が得意な子は絵で競争させて伸ばせばいい。そして勉強が得意な子は勉強で競争させて伸ばせばいいのだ。
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