鎌倉幕府は何年に成立?正解を言えますか 「1192」「1185」も違う?歴史は「進化」します
今回も「鎌倉幕府」と「源頼朝」についてよく受ける質問に答える形で、「基本事項」を解説しましょう。
鎌倉幕府と源頼朝のおさらい
Q1.まず確認します。鎌倉幕府は確実にありましたよね?
もちろんありました。前回取り上げた「あの『聖徳太子』が教科書から姿を消すワケ」とは違い、鎌倉幕府が実在したことは、『吾妻鏡(あづまかがみ)』その他のたくさんの史料からも疑う余地はありません。幕府の首班として発した頼朝の自筆の文書なども複数、残されています。
幕府は時期によって3カ所に移動していますが、最初は観光名所である現在の鶴岡八幡宮(鎌倉市)のすぐ東側の場所にあったこともわかっています。
Q2.鎌倉幕府は誰が開いたのですか?
源頼朝(みなもとの よりとも)です。鎌倉幕府と同じように、源頼朝ももちろん実在の人物です。ちなみに鶴岡八幡宮を現在の地に遷したのも頼朝です。
Q3.源頼朝って……どんな人物でしたっけ?
平氏とともに、平安時代末期の武家を代表していた源氏の嫡流です。「源平の戦い」で有名な源義経(みなもとの よしつね)は、頼朝の弟です。
Q4.源頼朝は、何をやった人物ですか?
当時、平氏は平清盛らにより絶頂期を迎えていました。その平氏の圧政に対抗して、関東の武士たちと平氏に反旗を翻し、鎌倉を拠点に、これまでなかった「初の武家政権」を確立したのが源頼朝です。
鎌倉幕府は、2度にわたる元の襲来など激動の時代を経たのち、1333年、足利尊氏や新田義貞らによって滅ぼされ、約150年の歴史に幕を下ろします。途中、源氏の将軍は三代で途絶えるものの、幕府自体がこれほど長く続いたのは、頼朝がデザインした「鎌倉幕府という組織」がいかに優れたものだったかを証明しており、この政治モデルは、以降の足利幕府、徳川幕府へと受け継がれていきます。
日本の歴史を語るうえで欠かすことのできない「武家政治」の確固たる礎を築いた人物こそ、源頼朝にほかなりません。
Q5.頼朝の就任した「征夷大将軍」とはどのような役職ですか?
もともとは東北地方の「蝦夷族(えみしぞく)」を討伐するための軍司令官で、必要に応じて任命された臨時の官職(令外官、りょうげのかん)でした。ただし、征夷大将軍は、軍事行動に関する絶大な権限を与えられていたことから、後に「武家のトップ(棟梁)」のような意味をもつようになります。以降、頼朝はじめ武士たちは皆、この位を羨望切望するようになりました。
そして、ここからが「1192つくろう鎌倉幕府」が教科書から消えた、その本題になります。
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