テレビのリポーターをする場合は、特定の選手を応援すべきではなく、公平な立場で試合を伝える、そんなことは十分承知しているんですが、今年の全英オープンはそれができませんでした。素直にトム・ワトソンの勝利を信じ応援し、試合を見てしまいました。
しかし、勝負は残酷なもの。百年に一度あるかないかの59歳と10カ月のチャンピオンは生まれませんでした。スチュワート・シンクにプレーオフで敗れたトムが私の目の前を通りましたが、かける言葉が見つかりませんでした。
私とトムとの出会いは、今は消滅してしまったサントリーオープン。1973年第1回大会は静岡県の愛鷹シックスハンドレッドクラブで開催されましたが、トムはアメリカ期待の若手選手として招待され、日本にやってきたのです。もっともトムは、試合直前に結婚したばかりで、気分は新婚旅行。木曜・金曜の予選ラウンドを一緒に回ったのですが、ラウンド中にカメラのシャッターを押してくれと頼まれたり、私がエスコート役に回ったりした記憶があります。その翌年、ハワイアンオープンやマスターズなどアメリカツアーに私が行くようになってから家族同士の付き合いが始まり、さらに親交を深めていったのです。
前にお伝えしましたが、私が初めて参加した1977年ターンベリーでの全英オープンで優勝したのがトムでした。振り返ると何から何までつながりの深い2人なのです。そのトムが、再びターンベリーで59歳にして優勝争いをするなんて、どんなリポーターでもトムを応援してしまうと、そう勝手に言い訳を作っているんです。
今年の全英の決勝ラウンドは、トムが多くのゴルフファンに感動を与えてくれ、木曜・金曜の予選ラウンドでは、石川遼がタイガー・ウッズと回り、皆さんに夢を与えてくれました。
ここで論議を呼んだのがその攻め方。タイガーが堅くアイアンで攻めるホールでも、遼くんは大胆にドライバーで勝負に挑んだのです。
私は、プロ2年目の遼くんだったら、ドライバーで攻めろと。結論から言うと、経験の浅いうちから人の意見を聞き、スケールの小さなゴルファーになるなということです。ジャンボ尾崎という超飛ばし屋の登場で、負けん気の強い私はとにかくたたきました。そして勝負どころで強いフックボールが出てしまい、何度か優勝を逃したのです。もっともトムが初めて日本に来た年に、私は持ち球のドローをフェードボールに変えたのですが。
どんなタイプのゴルファーになりたいのか。試合を重ねその経験から学ぶ。十分に学んだ後で、堅くアイアンで刻むという攻め方を選んでも、決して遅くないと思っているのです。
全英から帰国した遼くんは、サン・クロレラクラシックで優勝、全英は予選落ちをしたけれど、学ぶことが多かったはずです。
1942年千葉県生まれ。64年にプロテスト合格。以来、世界4大ツアー(日米欧豪)で優勝するなど、通算85勝。国内賞金王5回。2004年日本人男性初の世界ゴルフ殿堂入り。07、08年と2年連続エイジシュートを達成。現在も海外シニアツアーに参加。08年紫綬褒章受賞。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら