しかし全国大会で負けた瞬間、山口は柔道から離れることを決めていた。
「敗者復活戦で負けたんだけど、それまででいちばん自分らしく戦えて、気持ちよく負けたんです。それがすごく嬉しくて、そのときにふと、やりきったなと思いました。私はいじめられっこじゃなくなったぞって、自分のなかでマルをつけることができたのです」
山口にとって、柔道はいじめられっこではない自分になるための手段だった。その目的を果たしたことで柔道への情熱が昇華され、代わりに何年浪人してもいいから大学に入り、子どものときから違和感があった教育について勉強したいという気持ちが芽生えた。
柔道を辞めると決めたとき、顧問からは「ここまで育て上げたのに、オリンピックを目指さないのか」と叱責され、一部の保護者には「柔道を続けないのは裏切り」とバッシングされたが、やる気に火がついたときの山口は、目の前のことにしか意識がない。高校3年生の秋から怒涛の受験勉強を始めて、翌年の春には慶應義塾大学総合政策学部に入学した。
運命を変えたバングラデシュ訪問
ずいぶん遠回りをしながらも、世間一般的にはエリートコースに乗った山口だが、卒業後には「また小学校のときに戻っちゃった」と後悔することになる。
大学に進んだ山口は、しだいに国際援助と途上国の開発に関心を抱くようになり、関連するゼミに入った。そのゼミ長を務めていたのが、2007年にゴールドマン・サックス証券を辞めてマザーハウスに参画した副社長の山崎大祐だ。山崎は、大学時代の山口を「ファッション業界とはまったく無縁な感じの人だった」と笑う。
「いまでこそスタイリッシュですけど、当時はジャージで学校に来ていました。すごく内気で、ひたすら寡黙にやるタイプですね。でも彼女の問題意識を知っていたし、こんなに勉強するんだと驚いて、すごいなと思っていました。それで、わからないことがあったら持ってきなよと話をしたのが、問題意識を共有したきっかけです」
高校時代に柔道に没頭していたように、大学で猛烈に勉強をした山口は、大学4年生の時、ワシントンにある米州開発銀行でのインターンを経験。そこで現場と乖離した援助の在り方に疑問を抱き、インターネットで「アジア 最貧国」というキーワードでヒットしたバングラデシュに飛ぶ。
当時、1日1ドル以下で生活する人々が人口の半数近くも存在したバングラデシュでは、目にするものすべてがカルチャーショックだった。想像を超える貧困のリアルに、ただただ圧倒される日々なかで、「なんとかしないと!」という思いが募り、なんと2週間の滞在中にバングラデシュBRAC大学院を受験。合格すると、大学卒業後、周囲の反対を押し切ってバングラデシュに渡った。
=敬称略=
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